2017年3月時点、「こうのとりのゆりかご」第4期検証報告書より
◆「罪の意識はあります」──子どもの誕生日には心の中で祝い、その年を数えて
理恵さんに話を戻したい。
「あの時、声を掛けてもらったから、私はあの子の消息を聞くことができ、つながっていられるんです。なんだか、救われた気持ちです。あの時、逃げなくてよかった。慈恵病院ではいたわってもらい、とても優しい言葉を掛けてもらいました。ゆりかごに助けてもらいました。車で数時間で行ける熊本にゆりかごがあってよかったです」
名乗らずに子どもを置いていける赤ちゃんポストを目指した理恵さんだが、声を掛けられたことに「感謝しています」と言う。
「子どもを置くことはいいことではないと分かっているんです。だから罪の意識があります。あの時逃げていたら、ずっと区切りがつかず、置いた子どものことを考え続け、罪の意識を抱えて心を病んでいたと思います」
私は二つの相反する問いの中で行ったり来たりした。匿名で子どもを置ける場所があったから救われたのか。結果的に匿名ではなくなったから救われたのか。
目の前の理恵さんは「子どもを産んだことを、なかったことにはできない」と言った。子どもの誕生日には心の中で祝い、その年を数え、袋に包まれていた姿を鮮明に思い出す。
いま何をしているか、寂しい思いをしていないか。彼女は、わが子を案じ、その幸せを願う「ごく普通のお母さん」だった。私は赤ちゃんポストに子どもを預ける人について「子どもを育てたくなかった人」だと一方的に思い込んでいたことに気づき、自分が恥ずかしくなった。
理恵さんは「ゆりかごがあってよかった」と何度も繰り返した。この言葉は本心からのものだろう。だが、「ポストがなかったらどうしていたと思いますか」と聞くと、「自分で育てていたと思います」という答えが返ってきた。
彼女に必要なのはポストだったのだろうか。本来ポストが必要ない親たちに、子どもを手放す選択肢を与えてしまっていることもあるのではないか。どうしても考えてしまう。 たとえばこれまでに障害児が10人以上いる。この中に外国人が複数おり、中国から連れて来られた障害児も含まれている。
生まれたら赤ちゃんポストに置こうと思い、妊婦健診も受けないまま、自宅出産しているケースもある。熊本市がポスト検証のために設置した専門家による専門部会は、医療の介助を受けない出産を「孤立出産」と呼び、ポストの存在が孤立出産を誘発している可能性があると指摘している。こうした点をもって、ポストが安易な育児放棄を助長していると非難することはたやすい。しかし私は取材を続けるなかで、別の視点を持つようになった。
全国からポストを訪ねてくる母子がいることにしても、障害児が預けられていることにしても、一民間病院や地方自治体が受け止めきれる問題ではないはずだ。国や法律が対応すべき課題である。それが機能していないからこそ、ポストが求められている。そうした現状に、もっと光をあてる必要があるのではないか。