安倍首相は著書『美しい国へ』の中で、「わたしの原点」としてデモ隊が南平台(渋谷区)の岸邸に押し寄せた時の幼い記憶をこう書いている。
〈子供だったわたしたちには、遠くからのデモ隊の声が、どこか祭りの囃子のように聞こえたものだ。祖父や父を前に、ふざけて「アンポ、ハンタイ、アンポ、ハンタイ」と足踏みすると、父や母は「アンポ、サンセイ、といいなさい」と、冗談まじりにたしなめた。祖父は、それをニコニコしながら、愉快そうに見ているだけだった〉
新安保条約の発効を見届けた岸は1960年7月19日に退陣する。
どんな人物だったのか。当時、日本経済新聞の新人記者で、岸が退陣するまでの4か月間、総理番を務めた山岸一平・日本経済新聞社元専務が振り返る。
「岸信介というと、満州国をつくった強面のイメージが強かったが、人間的で話しやすい人でした。岸さんの自宅に我々番記者は朝晩通うわけですが、『朝から、ご苦労』なんて気軽に声を掛けてくれる。ある時岸さんがふらっと記者クラブに顔を出して、『君らは勝手に、言いたいことを書けて良いな』なんて言ってきたことがある。が、『文句を言っているのではないぞ。娘を新聞記者(脚注=娘婿で安倍首相の父・晋太郎氏は毎日新聞記者出身)に嫁がせているくらいだからな』とも言って笑わせていました」
安倍首相は安保改定を「隷属的な条約を対等なものに変えた」(『美しい国へ』)と祖父の大きな功績と受け止めている。
しかし、商工省のエリート官僚出身だった岸の真骨頂は経済社会政策にあった。安保改定で見据えていたのは「日本の経済的自立」と「貧困からの脱出」だったことはあまり指摘されていない。まだ政界復帰する前、私設秘書だった川部美智雄に語った言葉がある。