「強い中小企業の育成がなければ国際競争には勝てない」というのが岸の考えであり、高い技術力をもつ分厚い層の中小企業がものづくりを支える日本の経済構造はここからはじまるといっていい。岸の経済政策の研究で知られる政治学者・長谷川隼人氏が指摘する。
「吉田政権の復興政策は、軍事的にも経済的にも米国に依存して復興を進めようというものだった。朝鮮戦争を契機として繊維産業など軽工業を優先的に復興させる。その上で日米安保体制によって特需収入を持続しつつ防衛負担を抑制するという『日米経済協力』によって大規模な外資導入をはかり、基幹産業の復興や重化学工業の育成を目指そうとしたわけです。
これを岸は批判していました。岸は軍事的にも経済的にもアメリカという松葉杖に縋らなければ独立を維持できない状態から脱却することを国家の再建と位置づけ、輸出の即戦力となる中小企業を育成して外資に頼らずに自前で復興を図るという考えでした。そのためには、統制経済的な政策が必要になります」
高速道路と水力発電
国家統制によって産業を保護しながら競争力を高めるという岸の考え方は、商工省の官僚時代に身につけたものだ。
岸は商工省書記官時代(1926年)、第一次大戦後の不況下の欧米を視察し、米国の工業力に驚き、疲弊する自由経済の大国・英国の惨状に失望して、英国以上の被害を受けながら国家主導で再建に向かう敗戦国ドイツの産業合理化運動を学んだ。
「ドイツでは日本と同じように資源がないのに、発達した技術と経営の科学的管理によって経済の発展を図ろうとしていた。私は『日本の行く道はこれだ』と確信した」(原彬久著『岸信介』)
そう回想しているが、満州国の経営でそれを実践している。電力を得るために東洋最大と呼ばれた豊満ダム(中国吉林省)を着工し、道路インフラを整備していった。