「日本のためになるなら社会主義にだっておれは賛成する。但しだ、今の日本を見ろ、戦争に敗れ、生産力は落ち、分配なんて話は何の意味もない。今はとにかく日本経済を復興させて物を増やすことだ。今、分配しようたって3つの物を10人で奪い合ってるじゃないか。せめてあと7つ増やせ、そうすれば10人が1つずつ取れるじゃないか、今はその時代だ、経済復興優先の時代だ」
それが岸の政界復帰の“原点”にある。
「米国依存」の経済復興を転換
1957年2月に首相に就いた岸は就任会見で「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と「三悪追放」をスローガンに掲げて経済政策に力を入れる。
最初に取り組んだのは中小企業対策だ。当時の日本は「なべ底不況」と呼ばれる不況に直面していた。
戦後、吉田内閣は軽工業による輸出振興で外貨獲得を目指した。外交官出身の吉田は欧米型の自由経済論者であり、GHQ主導の財閥解体や独占禁止法によって自由競争を促す政策をとった。日本経済は折からの朝鮮戦争の特需に沸いたものの、米国の高い原材料を買わされたため貿易収支は赤字で、特需が終わると中小企業がバタバタ倒れた。吉田の路線を岸はこう批判していた。
「中小企業は本質的に弱体なものであってこれを自由競争のまま放任すれば共倒れとなってしまうのである。これを振興する道は国家が確固たる中小企業対策を樹立し、保護助成を加えるということ以外にない」
岸は、中小企業政策の大転換をはかる。中小企業団体組織法(1957年)で中小企業が商工組合をつくって生産調整、価格カルテル、大企業との団体交渉権を認めた。