巨人にとって日本シリーズ4連敗といえば、1990年の西武との対決が思い起こされる。2位・広島に22ゲームの大差をつけて優勝したものの、まさかのストレート負け。選手会長の岡崎郁が「野球観が変わった」と言うほどチームに衝撃が走った。翌年、巨人はまさかの4位転落。メンバーはほとんど変わっていなかっただけに、チーム内外に予想以上に“4タテショック”があったと言われた。
「セ・リーグの他の5球団に『巨人を必要以上に恐れることはない』という印象を与えたし、2年連続20勝の斎藤雅樹が勤続疲労からか調子を落としていたという戦力面のマイナスもあった。とはいえ、斎藤は11勝しているし、3本柱の桑田真澄、槙原寛己も健在でした。低迷の大きな要因に、ムードメーカーであるクロマティの退団があったと考えられます」
“巨人軍史上最高の助っ人”と呼ばれるウォーレン・クロマティは1984年に来日し、1年目に2割8分、35本塁打、93打点と活躍。広島とのデッドヒートを繰り広げた1986年10月には、頭部に死球を受けて退場した翌日に代打で登場し、ヤクルト・尾花高夫から代打満塁ホームランを放ち、王貞治監督と抱き合った。この年は広島に優勝をさらわれたが、翌年は見事に雪辱を果たし、就任4年目の王監督を初めての胴上げに導いた。8月20日、後楽園球場で行われた広島との天王山では、抑えの津田恒美から逆転サヨナラホームランを放っている。
「ヒットを打った後に1塁ベース上で頭を指差すポーズやホームランを打った後に1、2塁間で拳を上げるガッツポーズ、悠々間に合うタイミングでも3塁には必ずヘッドスライディングをするなど魅せる選手でした。ホームランを打った後、守りにつく際にライトスタンドの前で行う万歳パフォーマンスは恒例行事となり、巨人ファンの心を掴みました。今年のウィーラー以上に、ムードメーカーでした」
在籍7年で通算3割2分1厘の高打率を残したクロマティは、1990年限りで退団。日本球界初の4割打者誕生かと騒がれた前年に比べれば、2割9分3厘、14本塁打、55打点と最終年の成績は落ちていたが、極端に悪い数字でもなかった。結局、翌年38歳を迎えるクロウと球団は契約に合意せず、お別れの挨拶の場もなく、巨人を去っていった。