「球団やファンの中には、内心快く思わない人間もいたでしょう。そんな空気を察したからこそ、松井の口から“裏切り者”という表現が生まれたのではないか。もちろん、松井も巨人からFAした時点で、二度と戻れないと思っていたでしょうし、戻るつもりもなかったはず。FA直後の自主トレはジャイアンツ球場を使用しましたが、翌年以降は都内のグラウンドに場所を変えていました」
松井が去った後の巨人の対応も、楽天が田中に見せたような対応とは異なるものだった。
「2008年のドラフト会議で東海大相模高校の大田泰示を1位指名すると、巨人は松井の代名詞である背番号55を与えた。元々、メジャーに骨を埋める気持ちだったとはいえ、これで完全に巨人復帰が消えたのではないか。松井も当然、思うところはあったでしょうし、大田もプレッシャーになってしまった。結局、大田は巨人で結果を残せず、トレード先の日本ハムで開花した。特別な55番を新人に付けさせたことで、ファンの不信感も芽生えたし、巨人にとって何ひとついいことのない出来事だったと言えるでしょう」
2009年、松井はヤンキースの一員としてワールドシリーズに出場し、MVPを獲得。オフには契約満了に伴ってFAとなった。
「もしかしたら諸々の条件さえ揃えば、今年の田中と同じように巨人に復帰する可能性があったかもしれない。しかし、松井はまだまだメジャーでの挑戦を続けたかったでしょうし、何よりそれまでの経緯もありますから、松井は古巣のユニフォームに袖を通す気持ちにはなれなかったのではないでしょうか」
引退後のインタビューで、松井は〈可能性はあったよね。でも、あの時はひざが最悪だった。次の年から多少、良くなったんだけど。(東京ドームの)人工芝で守る自信はなかったね。万全なら、守れる状況ならわからなかったけど、その時はヤンキースが再契約しただろうね(笑い)〉(『スポーツ報知』2013年5月5日付)と語っているものの、リップサービスの感は否めない。
松井のメジャー挑戦以降の18年間で、日本球界は変貌した。巨人も時代の流れに沿うように、ポスティングを認めるようになり、2019年オフには山口俊が球団で初めて利用し、ブルージェイズに移籍した。もし2002年の巨人が松井のFAを積極的に容認し、その後も復帰を歓迎する体制を整えていたら、田中のように古巣に舞い戻ってくることもあったかもしれない。