しかし、経済には紙幣が不可欠で、紙幣を市中に流通させるためには大量の紙幣を印刷しなければならない。大量の紙幣を生産するには、製紙業の振興は至上命題でもある。
また、新聞をはじめとするジャーナリズムによって情報を伝えたり、得たりすることはビジネスにおいて重要でもある。さらに紙がなければ、教育に必要な教科書もつくれない。渋沢は、教育は経済発展に欠かせないと考えていた。そうした理念に基づき、渋沢は早くから大量に紙をつくる製紙業に着目していたのだ。
渋沢が王子で製紙業を興したことが契機になり、1875年には大蔵省抄紙局が王子工場を開設。1927年には王子駅?下十条(後の北十条)駅間の貨物専用線が開業した。王子駅と下十条駅間を結ぶ貨物専用線は北王子線と呼ばれ、2014年まで製紙倉庫への貨物列車が行き交っていた。
そのほか、王子駅の周辺には1931年に滝野川工場(現・東京工場)が竣工している。滝野川工場は全国でも数少ない紙幣の印刷を担当する工場でもあり、今でも紙の街・王子の象徴的な存在でもある。
渋沢が王子で製紙業を立ち上げなければ、これら製紙関係の諸施設が王子に集結することはなく、王子が紙の街として発展することはなかった。
銀行や製紙業のように、渋沢は社会が発展すると考えればどんな事業にもチャレンジした。その一方、深謀遠慮に長けているゆえに、常人から理解されずに失敗した事業もたくさんある。その一例ともいえるのが、牛乳の生産・販売だろう。
文明開化によって西洋化が進められていた明治期、牛乳生産は国家が推進する事業でもあった。明治は幕府が崩壊するという時代の転換期にあたる。牛乳生産・販売は明治新政府の発足により失業した武士たちの食い扶持をあてがうという意味もあった。渋沢は箱根に牧場を開設したが、販売所は一大消費地の東京に置いた。
シティプロモーション推進担当課の担当者は、渋沢と北区にまつわる秘話を打ち明ける。
「北区の田端には文豪・芥川龍之介が邸宅を構えていました。芥川を慕って、田端には多くの作家・芸術家が集まり文士村を形成しています。その芥川の実家は牛乳販売店を営んでいましたが、渋沢も牛乳生産・販売という事業を手がけていました。飛鳥山に居住した渋沢と田端在住の芥川は、牛乳という接点があったのです」