「陛下の御恩を忘れてはいけない」
この昭和天皇の言葉に救われたのが、事件の被害者遺族だった。
犠牲者の一人である陸軍教育総監・渡辺錠太郎大将の末娘で、のちに200万部超の大ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』を著わしたシスター・渡辺和子さん(2016年逝去)は、こう回想している。
〈事件後も母は涙を流すことはありませんでした。ただ事件を知った昭和天皇が「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此レガ鎮定ニ当タラン」、つまり自ら近衛兵を率いて鎮静にあたるとまで言ってくださったことに母は大変感謝して、「陛下のお蔭でお父様の面目が立った。天皇陛下の御恩を忘れてはいけない」とつねづね言っておりました。〉(渡辺和子「憲兵は父を守らなかった」)
渡辺大将の没後85年目に初めてまとめられた話題の本格評伝『渡辺錠太郎伝』には、青年将校らと同じ陸軍軍人でありながら、「戦争だけはしてはいけない」という非戦思想を唱えていた渡辺大将の人と形(なり)が綴られている。
その渡辺大将が、二・二六事件で襲撃対象になったのは事件直前と見られるが、詳しい経緯は明らかになっていない。だが、同書の著者である歴史研究者の岩井秀一郎氏によれば、前任の教育総監だった真崎甚三郎大将らとの陸軍内の権力抗争に加え、天皇を国家の中の一つの「機関」とする「天皇機関説」をめぐる政治的な争いが影響していたという。
「大きな契機になったのが、事件の半年前に渡辺大将が陸軍の将校相手に訓示をした際に『天皇機関説』を支持した、と喧伝されたことでした。それによって、渡辺大将に対する批判が殺到します。しかし、もともと天皇自身が『機関説』を認めており、渡辺大将にしてみれば、その陛下の考えを否定するのもいかがなものかという思いがあったのではないかと思います。
また、そもそも訓示は、そうした問題について陸軍の軍人たちが個々に議論することを戒めるものでした。にもかかわらず、その真意が広く伝わることはなく、一方的に『君側(くんそく)の奸』というレッテルを貼られたのです」(岩井氏)
同じ陸軍の中にあって、青年将校にしても渡辺大将にしても「天皇陛下のために」という思いは共通していた。しかし、昭和天皇が救おうとしたのは、渡辺大将のほうだった。そして結果的に、渡辺大将が命を落としたことで、日本はさらに坂道を転げ落ちるように戦争へと突き進んでいく。85年目の評伝は、その歴史の真実を教えてくれる。
昭和史は、まだまだ語り継ぐべき教えに満ちている。
*参考文献/半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)、渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」(「文藝春秋」2012年9月号)、岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』(小学館)