言葉と音を組み合わせた歌を届けながら、それ以外の要素を排除することで、図らずとも彼女の歌の魅力を際立たせているようだ。しかし中島自身は、常にファンを魅了し続ける言葉について、肯定的でもあり、否定的でもある。前出とは別のインタビューで《言葉に限界があるってことを認めたうえでも、言葉が好き》と語っている。
例に挙げるのは青空だ。
《私が見ているのとまったく同じ青空をあなたにも見せるってところが完成地点ではないんです。それは洗脳だもの。青空の中には私は私の思い入れがある、あなたはあなたの思い出がある。その2つが混じったとき、また違った青空が生まれるかもしれない》
《同じじゃないものが交わるから、新しいものがそこに生まれる、それを楽しみたいんです》(『ダ・ヴィンチ』2010年11月号)
中島が作品について深く語ろうとしないのは“洗脳”ではなく、ファンと自分、もしくはファンと曲の交わりによって織りなされたことで生まれる新しい発見を、中島自身も楽しみたいからなのかもしれない。
中島の紡ぐ糸を「小説。歌詞が小説みたいですよね」と表現するのは前出の上柳だ。おおたわもその言葉の連なりからたびたび、具体的なビジュアルをイメージするという。
「リアルでいて繊細なディテールのある中島さんの言葉からは、ドラマの情景が浮かびます。季節は秋、時間帯は夜で雨が降っているんだろうなとか、このせりふを言っているのはきっと、こんな髪形でこんな服を着た女性なんだろうとか、そういった映像が想像できるのです」
7才の頃、中島の曲が入ったカセットテープを姉からもらって聴いたのが出会いだったというのは、フリーアナウンサーの小島慶子(48才)だ。小島も、中島の描く女性像に思いを巡らせてきたという。
「あまり幸せそうな女性は出てこないんですよね。男性とうまくいかなかったり、未練があったり。でもどこかに、そんな女性に対する“労りのまなざし”のようなあたたかみが感じられます。悲しいときは悲しんでいいし、そんな聴き手を、歌いながら抱きしめる優しさが中島さんの歌にはあります」
こうした聴き手の自由な解釈は、時代、そして、聴き手の置かれた環境によっても変わる。