高校を出てすぐに活躍したから…
小倉氏が松坂に課した練習メニューは過酷だった。なかでもアメリカンノックは有名だ。ノックバットを持つ小倉氏の近くにいる松坂が70~80メートルの距離を走り、フライを背走して捕る。両翼のポール間を走って捕球する通常のアメリカンノックより難易度が高い。これを夏の炎天下にマンツーマンで4時間も続けたという。松坂は200本近く走っていたことになる。流石の松坂も「なんで僕をいじめるんですか」と訴えてきたが、「おまえが好きだからだよ」と返した。「練習をクリアして、『焼肉食わせてやるよ』って言ったこともあったな。特上カルビ10人前食べやがって。3万円かかったよ」と笑う。
「大輔はずーっと成長曲線だった。制球難は左の肩で壁を作って一気に右腕を振るようなフォームにしたらだいぶまとまって。直球はもともと速かったけど、変化球も物凄く器用に投げていたね。カットボールなんか2~3球投げさせたら覚えていたよ。フィールディングも入った時は決して巧いわけではなかったけど反復練習だね。プロに入ったら投げることだけに集中させるためにクイック、牽制も徹底的に鍛えた」
1998年、松坂の名前は日本中に知れ渡る。センバツ優勝投手としての重圧をものともせず、夏の甲子園では京都成章との決勝戦でノーヒットノーランを記録し、春夏連覇を達成。2年夏に神奈川県大会準決勝・横浜商戦で自身の暴投によりサヨナラ負けを喫したのが最後の黒星だった。2年秋から公式戦44連勝。社会現象になるほどの強さだった。
高校ナンバー1投手として進路が注目された松坂はドラフトで西武、横浜(現DeNA)、日本ハムが競合し、当たりくじを引いた西武に入団する。高卒1年目の1999年に16勝5敗、防御率2.60と圧倒的な成績を残し、最多勝、ゴールデングラブ賞、高卒新人で史上初のベストナインを受賞。2000年に14勝、2001年に15勝で3年連続最多勝を飾り、球界を代表する投手に上り詰める。だが、小倉氏は意外な言葉を口にする。
「1年目の成績に驚きはなかったよ。あれぐらいはやると思った。結果論になるかもしれないけど、あいつは3年目ぐらいから(1軍で)出ていたら、もっと長く活躍できたかもしれない。高校を出てすぐに活躍したからプロの世界をナメちゃった。1番の弱点は体のケアをしなかったこと。何度も言ったが、『僕は大丈夫です』と。あいつを慢心させるのが早かったかもしれない」