だが、首脳陣からすれば、1軍ですぐに使いたいと考えるのはやむを得ないだろう。常時150キロを超える直球とキレ味鋭い高速スライダーを軸に、チェンジアップ、カーブ、フォークの精度も高い。18歳の時点で完成されていた投手だった。小倉氏は野球センスが抜群なことに加え、「頭がいい子だった」と分析する。
「(高校時代に)データを渡すと、あえてど真ん中の直球を見逃して、相手投手の決め球をホームランにしていた。投手心理に立って、相手に一番ダメージを与えるやり方を知っているんだよ。打者でもプロで十分に大成できたんじゃないかな。三塁をやらせたら、同級生の村田修一(現・巨人1軍野手総合コーチ)といい勝負ができたと思う」
メジャーで引退するべきだと思った
松坂がプロ野球という枠を超え、多くの人の心をつかんだのは素朴な人柄によるところも大きかった。スーパースターになっても態度が横柄になることはなく、お世話になった人への義理を重んじ、友人を大切にする。「性格だろうね。みんなが大輔に集まってくる。高校の時も補欠やベンチに入れなかった子たちと仲が良かった」と話す。
1980年生まれの代を「松坂世代」と形容する言葉が生まれたように、球界の中心だった。西武時代の1999~2006年までの8年間で計108勝をマーク。2003、2004年と2年連続最優秀防御率を獲得し、最多奪三振のタイトルも4度受賞している。シーズントップの完投数をマークしたシーズンが4度という数字が証明するように、馬力があった。2006年は第1回WBCで大会最多となる3勝、防御率1.38をマーク。世界一に導き、大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。さらに、6月16日の横浜戦で、ドラフト制度導入後最速の191試合登板で100勝を達成する。全盛期は当分続く──。誰もがそう思ったが、小倉氏はこの時から松坂の「異変」に気づいていた。
「肘が下がって投球フォームがおかしくなっている。やばいな」
嫌な予感は的中する。メジャー移籍1年目の2007年にレッドソックスで15勝、2008年に18勝を挙げ、2009年には第2回WBCで3勝を挙げて2大会連続MVPに輝くが、この時に股関節を痛めてパフォーマンスが落ちていく。以後、毎年のように度重なる故障に悩まされ、2011年に右肘の張りを訴えてトミージョン手術を受ける。以降のメジャー6年間で積み重ねた白星はわずか23勝。
「メジャーに移籍して4年目ぐらいから投げ方が酷くなった。大輔は股関節が硬いからメジャーのマウンドが合わないんだよ。肘がさらに下がってきて、昔と比べると全く違うフォームだった。(2015年に)ソフトバンクに戻ってきた時も2~3勝すればいいかなと。ファーム施設で会ったりしたよ。電話でも話したけど、うん……」