社会通念は確実に変わっているのに、いまだにアップデートしないまま、悪い意味での戦後日本を引きずっている連中がいる。いい年して「ワルぶった俺かっこいい」のまま。
本物のワルと数多く対峙してきたノンフィクション作家の溝口敦は、かつて揉め事ばかり起こす元プロ野球選手の清原和博について「社会人としての自信が持てなかった彼の幼児性の表れではないか」と語っている。けだし至言である。清原はともかく、この「社会人としての自信が持てなかった」「幼児性」は中小出版社や編プロで、かつての清原同様にイキってヤクザ者を気取る一部編集者やライターと被る。本旨ではないが、こうした土壌も今回の騒動の背景にあることは、筆者も長く出版業界にあるのでわかっている。
「でもいいきっかけにはなったと思います。いじめという名の校内犯罪を面白おかしく語るなんて時代じゃないんです。今回の件、SNSも大半は真剣に怒ってくれる人ばかりでした。とくに若い子が声を上げてくれている。昔の匿名掲示板に比べたら雲泥の差です」
いまやSNSによって誰しも間違ったことには真剣に怒り、声なき声を上げることができるようになった。とくに1990年代をリアルで体験していないZ世代の若者は「当時のブームだった」とか「そういう時代だった」と語る業界の古い価値観のイキリおじさんたちに憤り、直接声を上げている。
「苦しむのは僕たちの世代だけで十分です。いじめは犯罪であるという価値観が定着して欲しいです」
社会規範は時代とともに変わる。その意味では、霊夢くんの言うことはもっともだ。そしてこんな前世紀の遺物を次世代に持ち越してはいけない。いじめという犯罪を根絶することはできないかもしれないが、いじめが暴行傷害、恐喝、侮辱、名誉毀損、すべてを網羅した犯罪であるという社会的コンセンサスは形成できるだろう。
1990年代のパソコン通信や2000年代の匿名掲示板、ブログでも散々批判されてきたのに黙殺した小山田圭吾と編集者たち、事ここに至っても価値観のアップデートができないままに擁護して恥を晒した一部出版関係者や芸人。かつて世間に反発し、露悪で売っていた自分たちが嫌っていたはずの老害になったその心境はいかばかりか。それにしてもオリンピック、ましてパラリンピックだってあるのにこの人選、東京2020組織委員会もあいかわらずのグダグダだ。
声を上げることは「やり返したら相手と同じレベルに落ちる」ことではない。「相手の土俵に乗ったら負け」なんて嘘っぱちだ。声を上げなければ舐められていいようにされる。筆者が『消えない「アジア人差別」に私たちはどう応じてゆけばよいのか』で書いたままの主張はここでも通る。やった側は笑えても、やられた側は笑えないし、忘れない。「いじめかっこわるい」では済まない令和の世、小山田圭吾の障害者いじめの告白は障害者虐待という犯罪自慢であり、その陳腐な悪と人間性も含め公の場に出る資格はない。弱者を苦しめて遊び、過去のいじめ告白という名の犯罪自慢を大人になっても繰り返した小山田圭吾に対する日本中からの非難こそ時代の変化、これからを生きる日本人の率直な声である。
──何人からも、すなわち人類に属する何者からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。
(ハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳、みすず書房)
人間はお前のおもちゃじゃないのだ。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社を経てフリーランス。全国俳誌協会賞、日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞(評論部門)受賞。『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社・共著)、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)。近著『評伝 赤城さかえ 楸邨、波郷、兜太から愛された魂の俳人』(コールサック社)。