これによって、これまでじゅうぶんな権利を保障されてこなかった多くのマイノリティが救われたのですから、この運動が総体としては社会の厚生(幸福度)を引き上げたことは間違いありません。リベラル化は、疑いものなく「よいこと」です。
ところがその一方で、「絶対的な正義」の基準を決めたことで、過去の記録を徹底的に調べ、正義に反した言動をした者を批判する運動が起きることになりました。インターネットに保存されたデータが永久に検索されつづける「デジタルタトゥー」や、SNSによって怒りや共感が瞬時に共有されるテクノロジーが、こうした運動を過激化させることになります。
英語圏ではこうした活動家(アクティビスト)は、「ソーシャル・ジャスティス・ウォリアーsocial justice warrior」と呼ばれ、SJWと略されます。キャンセルカルチャー、ポリコレ、SJWは世界を覆うリベラル化の大潮流を背景とした共通の現象で、日本にもいよいよその波が押し寄せてきたということだと思います。
──小山田氏は「いじめ」発言、小林氏は「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」を揶揄する表現が問題視された。「表現の自由」にも限界があるのでしょうか?
橘:「いじめ」と「ホロコースト」では意味合いが異なります。いじめには、子ども同士のわるふざけや「いじり」から犯罪と見なされるものまでグラデーションがありますが、ホロコーストの正当化や歴史の改ざん、揶揄・嘲笑はどれほどささいなものであっても許されません。日本人は欧米におけるユダヤ人差別の歴史についてよく理解できず、グローバルなルールに抵触してしまった事例でしょう。
「表現の自由」との関係はさまざまな論点があって一概にはいえないのですが、「差別を容認したり助長したりする表現の自由はない」というのがリベラルな社会の共通ルールになってきているのは間違いありません。小山田氏が「辞任」で小林氏が「解任」なのも、このちがいを反映しているのだと思います。
キャンセルカルチャーは歴史問題ともつながっている
──問題となったのはいずれも20年以上前の話。過去の問題はどれだけ時間が経っても許されないということでしょうか?
橘:これはキャンセルカルチャーに対する主要な批判のひとつで、「小学校の頃の愚行を、70歳、80歳になっても批判されるような社会で暮らしたい(子育てしたい)と思いますか?」という話です。
小山田氏のケース(小中高校時代のいじめ)でもこのことを指摘した識者がいましたが、それについての反論は、「そんなことはいってない。今回は特別に悪質だからみんな怒っているんだ」でした。しかしそうなると、「許される愚行と許されない愚行を誰がどのように決めるのか」という問いに答えなくてはならなくなります。
もうひとつ、あまり指摘されませんが、「過去の行為は(どれほど謝罪しても)未来永劫許されない」というのは、隣国が主張している「被害者中心主義」そのものです。キャンセルカルチャーは歴史問題ともつながっていて、これは日韓・日中などの東アジアだけでなく、今後、奴隷制や植民地主義もすべてこの「被害者中心主義」によって再検証されることになるのだろうと思います。