「甲子園は5回出たい」
当時の森木は高校野球では何の実績もない一球児に過ぎなかった。それでも、150キロという数字が一人歩きし、怪物の登場を待ちわびる高校野球のファンは過度な期待を寄せてしまうもの。誰より森木自身が、未来にこう期待を抱いていた。
「目指す球速は165キロですが、150キロのキレのあるボールを安定して投げたい。ホームランも、最終的には50本ぐらいは打ちたい。そのためにも甲子園はこの1年の夏から出て、卒業までに5回出たい」
高い頂を目指すのであれば、15歳の時点でこれくらいの大言を口にできなければならないだろう。
しかし、私がこの発言を記事にしたことで、あの名伯楽にして策士、甲子園通算54勝(2021年現在)を誇る明徳義塾高校監督・馬淵史郎の闘志に火をつけることになる。
野球王国・高知といえば、明徳義塾。明徳といえば馬淵だ。1992年夏の甲子園で、星稜(石川)の松井秀喜に対し、5打席連続敬遠を指示し、高校野球界一の嫌われ監督となった馬淵も、2002年夏には全国の頂点に立った。
明徳が長く高知で一強時代を築き、古豪・高知高校は夏に限っては2009年を最後に甲子園から遠ざかっていた。森木が聖地にたどり着くために、越えなければならない大きな城壁が馬淵だった。
その一方で、馬淵も窮地に立たされていた。高知中学とライバル関係にあった明徳中学で、テレビなどにも取り上げられていた関戸康介(大阪桐蔭)、田村俊介(愛工大名電)というふたりの有望選手が明徳義塾進学を選ばなかったのだ。さらに森木という豪腕が県内にいることで、明徳中学の約10人が明徳を離れるというのっぴきならない事件が起きていた。
甲子園で激闘を演じた横浜の渡辺元智が勇退し、智弁和歌山の高嶋仁も高校野球の現場を離れた。いずれも馬淵にとっては大先輩だが、同じ時代を生きた名将が監督を退く中で、還暦を過ぎてなお強烈なカリスマ性を誇示していた馬淵の求心力も失われつつあるのではないか。
そして人里離れた谷間に位置する「野球道場」と名付けられたグラウンドで、野球漬けの日々を送ることを、現代の球児は敬遠しているのではないか。森木が高校生となった頃、野球道場で馬淵にぶつけたことがある。
「そうは思わんよ」