『寺内貫太郎一家』は30%超の平均視聴率を記録した
トラブルを招く「著作権の相談」
「亜星さんが残した遺言書の内容に納得していない親族がいるようで、奥さまがどうしたものかと頭を悩ませているんです……」(テレビ局関係者)
その親族とは、亜星さんの次男・小林朝夫氏(60才)。亜星さんの離婚した妻との間にできた子供で、A子さんは継母にあたる。
「A子さんが財産の一切を受け継ぐことに対して、腑に落ちない思いがあるようです。一部では4億円とも報じられた遺産が、血を引いた自分に残されていないことに悲しさを感じると同時に、遺言書が“亜星さんがA子さんによって無理矢理書かされたものなんじゃないか?”と疑ってもいるようです」(芸能関係者)
朝夫氏は、自身が運営する有料ブログでも遺言書の内容への不満を吐露。トラブルは関係者の間で広く知られる事態になっているという。
亜星さんは過去にインタビューで「年収6000万円」と明かしていたことがある。遺産は莫大だと思われるが、朝夫氏の複雑な思いを増幅させるのは、亜星さんがたくさんの「誰もが耳にしたフレーズ」を世に送り出した作曲家であったことだ。
「幼少の朝夫さんを隣に座らせて作り出した思い出の曲の著作権なども、すべてA子さんに相続させるという内容だったと朝夫さんは主張しています。その点にも強く不満を感じているみたいです」(前出・芸能関係者)
1932年生まれの亜星さんは、慶應義塾大学を卒業後、就職した一般企業を数年で退職し1961年に作曲家デビューを果たした。レナウンのCM曲『ワンサカ娘』をきっかけに人気作曲家となり、その後は、『日立の樹』やサントリーの『人間みな兄弟~夜がくる』などお茶の間で親しまれたCMソングを担当した。また、『狼少年ケン』を皮切りに、『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』『科学忍者隊ガッチャマン』などアニメの主題歌も数多く作曲した。
1972年に『ピンポンパン体操』が200万枚を超えるヒットを記録すると、1976年には都はるみ(73才)が歌った『北の宿から』で日本レコード大賞を獲得するなど、手掛けた楽曲は実に6000曲に及ぶ。俳優としても活躍し、1974年にスタートした俳優デビュー作『寺内貫太郎一家』(TBS系)では昭和の頑固親父を熱演し人気を博した。
プライベートでは、大学卒業直後に前妻と結婚し、その後2男に恵まれるが、10年間に及ぶ別居の末1982年に離婚。直後にA子さんと再婚、以降40年近く夫婦ふたりで生活を送ってきた。