現代韓国社会に生きる「呪い」
韓国の場合、日本とは少し事情が異なる。2016年公開の映画『哭声/コクソン』は國村隼が「日本人」という役名で出演したことでも話題になった。現代の地方都市を舞台としたこの作品には、よく効くと評判の祈祷師が出てきて、呪いをかけた人物を呪い返す「殺(さつ)」という儀式を行なう場面がある。
このような祈祷師と呪術は巫堂(ムーダン)と総称され、その起源は仏教伝来以前にまでさかのぼることができる。現代まで継承されている点は、恐山のイタコ(青森県)や沖縄のユタなど、土着のシャーマニズムに近いと言えるかもしれない。
韓国のムーダンは中国大陸から儒学と仏教、近代以降に欧米からキリスト教がもたらされてからも消滅することはなかった。厳格な儒学者や僧侶、司祭、インテリなどから不審の目を向けられながら、この21世紀にもムーダンや呪いが現役を続けられる理由はどこにあるのか。
物質文明に対する疑念や批判、近代合理主義に対する反動といった月並みの言葉では、表現しきることができない背景が、韓国にはありそうである。
もっともあり得る可能性は「歴史」ではないだろうか。王朝時代を通じて両班(ヤンバン)と称される地主貴族が社会の上層を占め、王家と両班は儒学で自分たちの立場を正当化してきた。その他大勢の民は、知識と教養を独占する世襲家系に黙って従っていればよいとされてきた。
その体制が倒れた後には、日本による植民地統治が続いた。終戦で解放されたと思ったら、今度は恣意的な政権と軍事独裁体制が続き、1980年代の民主化以降もコネや賄賂が横行する負の遺産が根強かったことは否めない。