1950年5月、韓国・漢江を渡って進む国連軍。1956年度『経済白書』の序文「もはや戦後ではない」は戦後復興の終了を宣言した象徴的な言葉だったが、その復興は朝鮮戦争特需の影響が大きかった(時事通信フォト)
また今回ヒアリングした扶養範囲内で働く女性の中にはいなかったが、筆者の友人の話として「転勤家族はどうなる」という話もあった。小さな子どもを抱えて見知らぬ土地についていく配偶者にとって近年の控除枠の縮小はもちろん、先々の控除廃止ともなればさらに厳しくなることが予想される。もちろん自分自身で厚生年金に入れば将来の年金も増えることは白書で重ねて説明されているが、コロナ禍はもちろん重税に次ぐ重税と本年中に1000品目予定されている値上げ、そもそも肝心の平均賃金そのものが30年間上がらぬままに韓国どころかスロベニア以下、平均時給はキプロス以下という事態に陥った日本とその張本人である政府自民党が力説しても、今回の白書同様に信用度は限りなく低い。
「『扶養控除があるから女性が働かない』という言い方はおかしいです」
最後に正社員で働く女性の意見、彼女は配偶者としての控除を受けておらず夫とともにフルタイムの共働きだが、だからといって子持ちのパートや家族介護に従事する配偶者の方々の控除を削減しろ、控除をなくせとは思わないという。
「だって、次はサラリーマンの控除廃止ですよ。言い訳はいくらでも作れるでしょう」
なんだかナチスドイツ時代の聖職者、マルティン・ニーメラーの「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」のようだ。ナチスが共産主義者を襲い、ユダヤ人を迫害し、労働組合を弾圧するたびにドイツ国民は「ざまあみろ」と思っていた。しかし後にニーメラー自身もまた聖職者として排撃され、そのドイツ国民そのものも悲惨な運命を辿ったことは歴史の事実である。コロナ禍における「令和の魔女狩り」で私たちはそれを知ったはずだ。ライブハウスからパチンコ屋、夜の街、居酒屋、若者とコロナウイルスまん延の犯人とされては叩かれた。いまとなっては何だったのかという話、為政者が一般国民の中に「ずるい奴がいる」「得している奴がいる」を作るとき、それは自分たちに敵意が向かないためと何かを隠す時であり、「配偶者控除はずるい」「専業主婦はずるい」の裏にはそうした作為が隠れている。次はサラリーマンの控除廃止、先々の年金制度廃止につながるかもしれないのに。この国はさらなる税負担と各種控除の削減、そして社会の不寛容につけ込んだ自己責任論による階層の固定を目指している。つまるところ、切り捨てるだけ切り捨てた上で中流国への着地を試みている。筆者は悲観的だ。だからこそ端緒に声を上げるべきなのだ。
これを機に、ぜひみなさんも内閣府の男女共同参画局ホームページで公開している『令和4年版 男女共同参画白書』をダウンロードして読んで欲しい。そこに書かれた内容と、そこから辿る資料とで、この国が一般国民をどうしたいのかが見えてくる。今回はある意味、国も本音で書いているともいえる。もはや美辞麗句を並べるほどの余裕もないということかもしれないが、実際に白書を読んで筆者と同様の感想を持つのもいいし、「そんなことはない」「この国は素晴らしい」と思うのも自由、とにかくこの国の一大転換を宣言したことは間違いない白書なので、本当に読んで欲しい。なぜ「もはや昭和ではない」なのか、なぜ「もはや平成ではない」ではないのか、悪い意味で疑問、疑念が見えてくるに違いない。
そもそも「依然として戦後の高度成長期、昭和時代のまま」とは、誰の責任なのだろう?
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。