朝日の特集記事(1911年〈明治44〉2月19日付朝刊)

朝日の特集記事(1911年〈明治44〉2月19日付朝刊)

 いや、いち早く入手したというより、「こういうことをやるぞ」と藤澤サイドからのリークがあったのではないかと思う。というのは、朝日はこの「藤澤騒動」が収まった直後に全体像を振り返る特集記事を載せているのだが、それがじつに詳しく他紙の追随を許さない内容なのである。前後の事情から見て、リークしたのは藤澤本人では無く周辺の人間だったと考えられるのだが、とにかくその朝日の特集記事(1911年〈明治44〉2月19日付朝刊)の内容を紹介しよう。〈南北朝問題の眞相〉と題した記事は〈発端は煖炉の前〉という見出しから始まる(以下、〈 〉は記事からの引用。旧漢字、旧カナは一部改めた)

〈一月十九日早稲田大学講師室に於て同校講師牧野謙次郎氏他数名の講師がストーブを囲んで雑談中不圖側にある某新聞を手にし初めて同教科書に対立論として記述しある旨の記事を発見し此は由々敷大事なりと盛んに談論中又吉田東伍博士も来合せ同博士は絶対の北朝論者なれば茲に端なくも一場の議論を惹き起せり〉

〈某新聞〉とは言うまでも無く読売のことだが、歴史学者吉田東伍は一般には世阿弥が能楽の極意を語った『風姿花伝』を『花伝書』という名で広く世間に知らしめたことで有名だ。吉田がいなければ『風姿花伝』は世に出ることは無かっただろう。その吉田は、「北朝こそ正統」という論者だった。吉田はこの時代の人間には珍しく漢学では無く英学でスタートした人間だから、合理的にこの問題をとらえていたのだろう。

 すでに述べたように、日本以外の国では「南朝が正統」という考え方は議論の対象にすらならない。当時の天皇は北朝の系統だし、南朝の子孫がまだ生きていて正統性を主張しているならともかく、完全に絶滅しているのだから議論になりようがない。むしろ外国では(中国でも)、こういう状態のときに「南朝が正統(=北朝はニセモノ)」などと言い出せば、北朝系である天皇に対する「大逆(叛乱)」になる。この奇妙さにどうか気がついていただきたい。何度も繰り返したように、日本だけは「大逆」であるはずの行動が「大逆」にならない。日本は怨霊信仰の国だからだ。

 記事に登場する牧野謙次郎は漢学者である。この時代、漢学者であることは水戸学つまり中国伝来の朱子学と日本古来の神道(怨霊信仰)が融合した、「日本的朱子学」の信奉者であることを意味した。「日本的」というのがミソで、純粋な朱子学だけだったら「南朝は後醍醐天皇に徳が無かったので滅びた。子孫が絶滅したのがその証拠だ」ですべてオシマイになる。だが、「日本的朱子学」の信奉者にとってはまさに〈由々敷大事〉だ。そこで牧野が「水戸学コネクション」を動かし、この問題に対応することを決意した。

〈牧野氏は帰途同僚なる松平康國氏を訪ひ此儘に棄て置く可きに非ず然れども既に教科書をして採用せるものなれば個人としては迚も改訂する事困難なれば然る可き代議士をして議会に於て質問せしむ可しと云ふ事に決して帰宅せり〉

 要するに、この「藤澤騒動」の仕掛人でありプロデューサーは牧野謙次郎だったのだ。牧野と松平はのちにともに早稲田大学教授となる親しい間柄で、おそらくこのとき牧野はマスコミ対策を松平に依頼したものと思われる。というのは、松平には読売新聞での記者経験があるからだ。リークしたのは松平だろう。そして読売出身であるにもかかわらずライバルの朝日に伝えたのは、マスコミ経験から読売に一歩先んじられ焦っている朝日のほうが大きく取り扱ってくれるという読みがあったのではないか、と私は推測している。

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