永作は1989年、19才のときに3人組のアイドルグループ『ribbon』のメンバーとしてデビューした。当時はほかにも『CoCo』や『Qlair』、『東京パフォーマンスドール』といったアイドルグループが活動していたが、そのメンバーの多くはすでに芸能界を引退。永作は、いまも芸能界で活躍を続ける数少ない存在だ。
「1987年に一大ブームを巻き起こした『おニャン子クラブ』が解散。1998年に『モーニング娘。』がデビューするまでの約10年間は、“アイドル冬の時代”と呼ばれていました。その中では、ribbonは人気がありましたが、社会全体の知名度は低く、いわゆる売れっ子とは程遠かった。
そうした背景もあり、永作さんは早くから“アイドルとしての寿命は短い”と自覚していた。そのときに、いまの女優業につながる『劇団☆新感線』の舞台の仕事が入ったんです。グループ解散直前の1993年のことで、彼女は無我夢中で芝居の稽古に取り組んでいるうちに、役者業にのめり込んでいきました」(別の芸能関係者)
1994年にribbonが解散すると、永作は本格的に女優に転身。多くの作品に出演するうち、演技派女優と認識されるようになっていった。当時、永作自身は「歌が好きで、芝居は苦手だった」と語っていたが、アイドル評論家の中森明夫さんは、女優としての成功をこう分析する。
「永作さんはアイドルの頃から、女優として成功する下地があったように思います。『おニャン子クラブ』の子たちは放送ギリギリの過激な発言をしたりして、みんながテレビで爪痕を残そうと必死だった。対してribbonは逆路線を選択して、ガツガツと前に出ることをしなかった。
その中でも、永作さんは特に控えめな存在。“個性がないアイドル”と揶揄されることもあったほどです。でも、アイドルとしての色が付いていなかったからこそ、すぐに世間に女優として受け入れられたのではないでしょうか」
彼女の場合ただ演技がうまいだけではなかった。度胸や忍耐力も際立っていたという。2003年に出演した連続ドラマ『伝説のマダム』(日本テレビ系)の撮影現場では、そんな永作の内面がわかる、ある“事件”が起きていた。当時のスタッフが明かす。
「永作さんとW主演だった桃井かおりさん(71才)が、脚本に注文をつけたことで、ストーリーが大幅に書き換わってしまったんです。結果的に永作さんの出演シーンがカットされ、多くのせりふが変更になった。それでも彼女は文句を言うこともなく、淡々と自分の役を演じていました。永作さんに詫びるスタッフにも、逆に同情の声をかけていたのが印象的でした。
ただ現場では穏やかだった永作さんが、クランクアップ後、桃井さんを共演NGにしたと聞いて驚きました。相当な思いを抱えつつも、それをおくびにも出さずに耐えきった。女優魂がなせる業なのでしょう」