外国人には丁寧親切にして寛容に
しかし、そうは言っても元は朱子学であるから、日本でいくら改変に成功したと言っても、その本質である「独善性と排他性および商業(経済)蔑視」は明治の時代になっても副作用として残された。その商業蔑視を見事に改変したのが、天才渋澤栄一である。渋澤の改革によって、清国も朝鮮国も成し遂げられなかった近代資本主義国家の建設が日本において可能になった。
そもそも独善性も排他性も商業蔑視も、朱子学という「毒」が持つ強烈な副作用である。その毒性を日本人は歴史的に上手く取り除いてきたのだが、最後に独善性と排他性という毒素だけが残った。それを天皇の絶対的権威を利用することによって、その命令という形で排除しようとしたのが西園寺公望であり、第二教育勅語なのだ。幸いにも第一教育勅語には、独善性と排他性を誇示するのとはまったく反対の姿勢を守れという意味の「恭倹己レヲ持」せ、つまり「常に謙虚であれ」という言葉があった。だから西園寺はこの言葉を上手く使って(「利用して」と言うと天皇に対する不敬行為になる。しかし実質的にはそうである)、日本的朱子学に残った最後の毒素とも言うべき独善性と排他性を排除しようとしたのである。それゆえ、第二教育勅語の次の段落は、「常に謙虚であり外国に対して尊大な態度を取らない日本人のあるべき姿」になる。
〈此時ニ当リ朕ガ臣民ノ与国ノ臣民ニ接スルヤ丁寧親切ニシテ、明ラカニ大国寛容ノ気象ヲ発揮セザル可カラズ。〉
前回訳したことだが、「他国の人々と接するには丁寧親切を旨とし大国の国民としての寛容の態度を示すことが必要だ」というのだ。この第二教育勅語が模索された時点で、日本は日清戦争に勝ち台湾という新しい領土(領民)を獲得した。また、その結果いわゆる不平等条約の改正が進み、近い将来外国人とくに欧米の人々が日本国内で「雑居」する道が開かれた。
思い出してほしい。幕末に日本が結んだ不平等条約では、日本はイギリスやアメリカに大使では無く公使しか置けなかった。しかしその反面、外国人にとってもこの条約は日本国内での自由な旅行や居住地の選択に制限を加える不平等なものであった。たとえば、イギリスは留学生夏目金之助(漱石)に「お前は日本人だから日本人町に住め」などとは言わなかった。
もちろんフランスへの留学生西園寺公望も同じだが、日本では長い間の攘夷主義の影響もあって、外国人は「居留地」に住んでいた。そうしないと生麦事件のような緊急事態に身の安全を守れないということもあったからだ。しかし、もうそういう時代では無い。この第二教育勅語の冒頭でも強調されているように「先皇(孝明天皇)」が決断した「開国ノ国是」はもう絶対に揺るがない。だからこそ「内地雑居」があたり前になる社会では、「外国人に対しては丁寧親切にして寛容」でなければならない。
ちなみに、この「内地雑居」は当時の「流行語」というか時事用語であって、国民は誰でも知っている言葉だった。もちろん「日本国内で日本人と外国人が雑居する」という意味だが、いまではこの時代の専門家でも無い限り知らない死語になってしまった。そうなった理由は、おわかりだろう。現代の日本でそれが実現されあたり前になったからだ。「外国人が日本国内どこでも自由に居住し、日本人はその外国人たちに対して親切丁寧にして寛容である」、西園寺が理想とした状態をこのように要約するなら、その理想は百年以上の時を経てようやく実現したと言っていいだろう。