夕方になると三線を弾きながら民謡を歌っていた父
長いブランクがあったせいか、最初は声を出すことも容易ではなかった。長女の東山盛敦子さんが続ける。
「あのときは本当に声が出てなかったので、発声練習からはじめることにしました。毎朝、公園に行ってボイストレーニングを続けてきたおかげで、いまはだいぶ感覚も戻ってきたように思います」
毎朝6時半頃、齋藤さんは自宅近くの公園で体力作りと発声練習を行っている。
「まずラジオ体操をやって、体をほぐしてから声を出すのを日課にしているんです。最初はアパートの近くで歌っていたら、どなたかの部屋の電気がついてしまって、これはまずいと(笑い)。ご迷惑にならないよう、いまは広場で、平和の鐘を背にして大きな声を出すようにしています」(齋藤さん)
齋藤さんの自宅近くの公園には、世界平和を祈念した平和の鐘が設置されている。太平洋戦争末期に20万人以上の尊い命が失われた沖縄では、同様のモニュメントが各地に設けられ、人々はいまも過去の歴史と向き合い続けている。齋藤さんが生まれ育った宮古島も、戦時中は幾度となく米軍機の空襲を受け、多くの犠牲者を出した。
「当時、私は小学生だったので、母や兄と一緒に台湾に疎開していました。そのため、空襲の被害には遭わずに済んだのですが、女学生だった姉は疎開することができませんでした。従軍看護隊に動員されて、看護師として銃弾の飛び交う中を走り回ってそれはもうおそろしい思いをしたそうです。
姉だけ置いていくのはかわいそうだと言って、父も宮古島に残りました。進駐軍が上陸してきたときは、自害するつもりで、常に毒薬を持ち歩いていたそうです」(齋藤さん)
齋藤さんの父は製糖工場を営む商人だった。
「もともとは那覇出身で、穀物や豆を売るために寄留した宮古島に移り住んだんです。戦争が終わって台湾から帰った後、家族で那覇に引っ越したので宮古島の言葉はほとんど話せません。戦時中は方言を話してはいけないと厳しく言われていましたからね。それでも、小さい頃に宮古の家で、父が夕方になると三線を弾きながら民謡を歌っていたのは何となく覚えています。いま考えればそれが音楽の原体験かもしれません」(齋藤さん)
取材・文/鈴木竜太
(第3回へ続く。第1回から読む)
※女性セブン2023年2月2日号