なにしろ相手は海千山千の袁世凱なのである。もっとわかりやすく言えば、弁は立つが政治経験も外交経験も乏しい尾崎行雄のような「政党人」ではダメで、もちろん陸軍の出身者も論外だ。となれば、藩閥出身であるが日露戦争のときに海軍という国家に匹敵する組織を海相として見事に運営した山本権兵衛に任せるしかない、西園寺はそう判断したのだろう。
これが、いわゆる「政友会の裏切り」の真相であると、私は考えている。政友会のメンバーが山本内閣入りしても西園寺がそれを咎めなかったのも、前回述べたように西園寺と山本の間に密約があり、その実行を条件に政友会が全面バックアップしたということだろう。その密約とは、前回述べたように「山本内閣は、陸軍の専横を許す切り札となる軍部大臣現役武官制を必ず改革する」ということだ。この(西園寺が理想とする)国益上きわめて重要な施策を実現するためには、「民衆の熱望を無視して政党内閣では無く、藩閥内閣成立に手を貸した裏切り者」呼ばわりされてもやむを得ない、と西園寺は考えたのだろう。
「名を捨てて実を取る」
ところで、読者は疑問に思わないだろうか。じつは、口で言うほど軍部大臣現役武官制改革は簡単では無い。この制度はこの時点でも「現役」なのである。つまり、陸軍はまず山本内閣の陸相に辞表を出させ、次に山本首相の後任派遣要請を拒否ないし無視すればいいわけだ。それで山本内閣は崩壊する。それなのに、この廃止は実現した。つまり、それは陸軍上層部の意向を無視して内閣の決定に賛成した勇気ある陸相がいたということなのである。
その名を木越安綱という
〈木越安綱 きごし・やすつな
没年:昭和7・3・26(1932)
生年:安政1・3・25(1854・4・22)
明治期の陸軍軍人。男爵。金沢藩士加藤九八郎の次男。明治6(1873)年教導団に入り、同10年の西南戦争に従軍して負傷。同年陸軍士官学校卒。日清戦争(1894~95)では第3師団高級参謀、参謀長として桂太郎師団長を補佐した。以後、桂の庇護のもと軍務局長などを歴任。日露戦争(1904~05)では第5師団長。明治45(1912)年12月第3次桂内閣成立時に抜擢されて陸軍大臣となったが、第1次護憲運動のなか桂内閣が倒れ、留任した第1次山本権兵衛内閣で軍部大臣現役武官制の改正を容認したため辞任、休職となる。のち貴族院議員。〉
(『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社刊 項目執筆者小池聖一)
まずは、薩長土肥つまり藩閥の出身者では無いというところにご注目願いたい。加賀前田家は賊軍では無いが、官軍には「途中参加」で当然出身者はエリートコースを外れているわけだが、それでも中将になったというのは相当優秀だったということである。実際、その優秀さを桂太郎に買われ木越はずっとその腹心であった。桂と並んで陸軍の「ドイツ化」に多大の功績があったという評価もある。
にもかかわらず木越は、結局陸軍大将にはなれなかった。理由はおわかりだろう。真の国益よりも「陸軍益」を尊重する古巣から、「裏切り者」とか「恩知らず」とさんざん悪口を言われたからだ。そういう連中はこの「賛成」についても「山本首相の恫喝に怯えた」とか「懐柔された」などと、あること無いこと言いふらしたらしい。
そうした悪口に惑わされず人物評価をしなければならない。逆に言えば、こうした障害があったにもかかわらず軍部大臣現役武官制を改革し現役だけで無く、予備役を登用することも認めた山本首相の力量は大したものだということにもなるだろう。
また、これも西園寺との密約に含まれていたと私は思うのだが、山本内閣では文官任用令の改正も実現した。たとえば、現在各省庁の代表として大臣がいる。外務省には外務大臣、文部科学省には文科大臣がいて、基本的に大臣は国会議員から選ばれる(首相の権限で若干名民間人から登用することも可能)。しかし、それを補佐する省庁の官僚のトップである外務次官などは、原則として国家公務員になるための試験に合格した官僚でなければならない。いわゆるキャリア官僚である。