「ビリビリビリって電流が体中に走る」
そんな原田さんの役者人生の始まりは大学2年にまで遡る。まさに運命的な、演劇との出会いだったようだ。
「18歳で山口県から上京して東京の明治大学に進学しました。大学では英語部に入ったんですよ。東京オリンピックの前の年の1963年ですね。来年のオリンピックを境に日本もいよいよ本格的に国際化していくぞっていう時期でした。でもグローバリゼーションって言われても、なにそれって感じだったよね。『新しい野球のグローブのことかしら』くらいの英語力だったんだけど(笑)。でも、英語くらいしゃべれるようにならなけりゃなぁと思ってたんだね。
英語部といっても、気持ちは体育会系のクラブでね。先輩とのつながりが深くて、今でも芝居を観に来てくれます。僕らはよく、和泉祭(学園祭)の会場で、会場整理の応援団と、喧嘩したりしていました。あのころは、べ平連(ベトナム反戦運動)、授業料値上げ問題(大学理事会との衝突)などで社会も湧きかえっていた。
そうして2年生の時に、先輩に英語劇のオーディションを受けろって言われたんです。でもその頃の僕は人見知り。人前でセリフを言ったり、踊ったりなんてとんでもない。なにせ父親から“人に笑われるようなことはするな”と教えられてきた人間ですからね。役者って笑わせることも仕事のひとつ。つまり人から笑われる職業です。そんなの父親の言いつけに背くことになりますから、勘弁してくれって断ったんです」
ところが先輩も譲らない。なにせこちらは、180センチに近い高身長でイケメン。堂々とした立ち居振る舞いは大学内でも目立っていたのだろう。
「それで5時間くらいだったかな、膝詰めで説得されて、最後の最後に『お前、オーディション受けて落っこちるのが怖いんだろう』って言い出した。そう言われるとこっちも『いや、怖かないけどさ』となる。結局、なんやかんやと上手いこと言われて『わかりました、あなたの顔を立てるためにオーディションだけは受けます。ただ、合格しても芝居には出ませんからね』ってことになったんです」
10人ほどの先輩たちが審査員として居並ぶ会場で、原田さんは1枚の台本を渡された。そこには「アルバイトから帰ってきたら、『ハハキトク』の電報を受け取った大学生を演じよ」とだけ書いてある。
「これをエチュードでやれって言うんだね。芝居のエチュードってのは即興劇のこと。さらに声を出さずにパントマイムで演じなさいと……ド素人の19歳には荷が重いよね(笑)。でもいざステージに立つと、なんだか体がざわついてくる。
エチュードだから何も持たない。電報配達員も、相手がそこにいるものと想像して演じる。声は出さずに電報を受け取る仕草をする。ところがその時、受け取った電報の紙面(これも想像)に”ハハキトク”って文字が浮かび上がってくるんだよ。急に山口にいる母の顔がばーっと浮かんてきで、『うわ! ここまで育ててくれたおふくろが死ぬぞー』と思った途端、ポロポロ涙がこぼれてね。
まぁ、それが大絶賛だった。是非とも出演してくれということになった。僕自身もびっくりしましてね。“なんだこの経験は”と思った。演じることに取り憑かれた瞬間です。それ以来、ずっと取り憑かれっぱなし(笑)」