立てこもりの現場となった自宅。母親と伯母がいた(時事通信フォト)
中学時代は野球部に所属していたという青木容疑者。同じ野球部に所属していた、同級生の母親が回想する。
「政憲くんは、キャッチャーをやっていました。お母さんが、よく練習試合や大会に来て、熱心に応援していました。ただ、3年生のときに後輩にレギュラーを奪われてしまって、その後はあまり練習に来なくなりました」
中学では上位の成績。卒業文集には「自分が思う事」として《この世の中で最も大切なものは「命」だと思います。では二番目は何かと問われたら私は間違いなく「金」と答えるでしょう》《よく聞く綺麗事に「心にゆとりを持ちなさい。」というのがあります。それは金持ちの言う言葉であって、金の無い者や、職業に就けない者が心にゆとりなど持てる訳がないと思われます》などと綴っていた。高校は地元の進学校に通った。青木家の知人が振り返る。
「お父さんもお母さんも教育熱心でね。政憲くんの大学進学のときには、防衛大学校に入れたいと話していたこともありました。でも成績は振るわず。1浪して、東京の私立大学の情報通信系の学部に進んだそうです」
ところが、上京して間もなく挫折が訪れる。環境になじめず、大学を中退して長野に戻ってくることになったのだ。
「異変を察知した両親に、青木容疑者は『大学で“ぼっち”とバカにされている』、『自宅アパートに盗聴器や監視カメラが仕掛けられている』と主張。両親は見かねて長野に息子を連れ戻したそうです」(前出・社会部記者)
「あの家はお母さんの方が強いから」
長野に戻った長男を地域になじませようと、両親は、毎年秋に行われる地域のお祭りに青木容疑者を参加させた。
「政憲は十数人の楽器演奏チームに入り、笛を担当していました。黙々と練習するタイプで、上達は早かったですよ。自分から話すことはないものの、飲み会にも顔を出していた。たぶん彼が23、24才ぐらいのときかな。『銃を持っている。鳥を撃っています』と話していたこともありました。
頑張っていたけれど、根底には人づきあいへの苦手意識があったと思う。4、5年経った頃にはフェードアウトして、一升瓶を手にしたお父さんが『申し訳ない』と謝りにきました」(地元関係者)
家業の農業に従事していたという青木容疑者は、結局、地域にはなじめず、平日は自宅と農地の往復を続けていたようだ。そんな彼とは対照的に、両親の活動は活発だった。
「お父さんは市議会議長だからみんな知ってます。でも、あの家はお母さんの方が強いんです。“彼女が市議会議員をやった方がいいんじゃないか”って言われるくらい。PTA、地域の文化部長もやった。ほかに、自宅や公民館でのフラワーアレンジメント教室、フルーツのカッティング教室を開いて、直売所で花も売って……さらにジェラート店も経営されています。商売っ気のあるかたという印象です」(近隣住民)