『俺たちの旅』(1975年)
大学時代にバスケに情熱を燃やしていたカースケ(中村)とオメダ(田中健)は、卒業を間近に控えても社会と正面から向き合うことができずにいた。そんなある日、カースケはたまたま入った居酒屋で同郷の先輩・グズ六(津坂まさあき、現・秋野太作)と再会する。
陽気で強引なカースケの振る舞いに辟易とするグズ六だったが、やがて3人はグズ六の下宿で共同生活を始める。会社勤めが性に合わず、3人は起業、自由な生活を手に入れたかに見えたが、それほど甘くはなかった。
「刑事ドラマとも学園ドラマとも違う、何の変哲もない大学生の日常を描くというのはそれまでなかった作風で、みんなが手探りの作品でした。自分の大学時代をはじめ、若い頃の話をみんなで出し合ってつくっていました。下駄を履いているのは、俺が大学生の時に履いていたから。衣装も自前で、カースケは本当に等身大の俺の姿なんです(笑)」〈中村雅俊〉
「オメダの妹・真弓役で出演した当時、私はデビューしたばかりの16歳の高校生でした。年齢が離れていたこともあり、中村さんたちの楽しい飲み会に入れなかったことを覚えています。中村さんは気さくな方で、スタッフや共演者の人たちの替え歌を作ってギターで歌ってくださったりして、とても楽しい撮影現場でした」〈岡田奈々〉
『俺たちの勲章』(1975年)
松田優作
事件解決のためなら拳銃で撃つことも辞さない型破りな刑事・中野祐二(松田優作)と、事件のたびに感傷的になり、「刑事とは事件発生を事前に防ぐ存在」と考える、優しくも融通のきかない刑事・五十嵐貴久(中村)。
2人は捜査課で厄介者扱いされ、担当するのは地方の事件ばかり。刑事ドラマでありながら、対照的な2人が事件解決に情熱を燃やし、時に互いの信条をぶつけ合い、犯人や被害者に心を寄せながら、刑事として人間として成長していく青春ドラマだった。コンビものの刑事ドラマの原型になったといわれる。
そして、中村はかねてより吉田拓郎の大ファンであることを公言している。『俺たちの勲章』の撮影に臨む際、中村はドラマの楽曲制作に吉田拓郎を指名した。
「前作と同じスタッフだったので『拓郎さんにお願いしてみてよ!』とさらりと頼んでみたら、OKでした(笑)。その後、同じく作曲していただいた挿入歌『いつか街で会ったなら』のレコーディングで初めてお会いしました。もう有頂天でしたよ」〈中村雅俊〉
当時、学園ものはいずみたくが作曲を手掛けることが既定路線。「刑事ものならば」と頼んでみたことが、名曲の誕生につながった。
「共演した松田優作さんは文学座の先輩。当時、マネージャーも一緒で、『われら青春!』のプロデューサーである岡田晋吉さんや脚本の鎌田敏夫さんなど、気心の知れた身内というべき方々と引き続き仕事ができたのは幸運でした。現場は和気あいあいでしたが、松田さんはアドリブの芝居が多くて、ほどよい緊張感のなか、表現の勉強になりました」〈中村雅俊〉
「私の役は行きつけの居酒屋の女将さん。中村さんは本当に優しい方でした。ユーモアがあって若いのに気配りができて、スタッフも含めて誰からも好かれていたのが中村さんでした。中村さんが結婚された時、スタッフに冷やかされて照れくさそうにしていたのを覚えています。撮影以外でもスタッフといい関係を築いているのだなと感心したものです」〈結城美栄子〉