「ある意味では、事件や事故に追いまくられてきた一年でもあったというふうに言っても過言でないような年であったと私は思います」
村山さんの言う「事件や事故」とは、阪神・淡路大震災(一九九五年一月一七日)、オウム真理教による地下鉄サリン事件(同三月二〇日)、沖縄県でのアメリカ海兵隊員による少女暴行事件(同九月四日)、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故(同一二月八日)などを指します。
こうした危機対応の不備だけが退陣の理由ではありませんが、いずれにせよ村山さんは政権を放り出し、「じゃあ、次は橋本で」と自社さ三党が協議し、自民党総裁の橋本さんを首班とする政権ができたのです。流動化する政局のなかで、国民受けする人、テレビ映りのいい人を総理総裁にしようとする自民党の思惑がありました。すなわちポピュリズムです。本来の自民党のルールではありえないことでした。
小泉純一郎さんは、その延長線上にいます。二〇〇〇年四月、小渕恵三さんが脳梗塞で倒れると森喜朗さんが首相になりましたが、あまりにも不人気で支持率は八・六%(「読売新聞」世論調査)にまで落ち込みました。だから国民的人気があり、田中眞紀子さんの大衆扇動的とも言うべき応援演説も受けた小泉さんが首相に選ばれたのだと思います。
以上の文脈から言えるのは、派閥を固めて仲間を増やし、他派閥とも交渉しながら同盟を組んで総裁選に臨むという自民党内の典型的な戦い方は、二〇世紀の終わりとともに終焉したのです。一九九八年七月二四日の総裁選で小渕さん、小泉さん、梶山静六さんの三人が熾烈な戦いを繰り広げましたが、それが最後だったでしょう。
個々の政治家から見れば、数百人の議員が集まる自民党にあって、いきなり「おまえ一人で何かやれ」と命じられても困ります。やはり適当なサイズの中間集団すなわち派閥に所属する必要があるわけです。そして副大臣、党副幹事長、国会対策委員会委員長代理などのポストを回してもらい、政治家としての勉強をする。だから派閥には、学校における学級のような機能があります。
ただ「学級」に所属して、ポストを与えてもらったり、選挙の時に有名人に応援に来てもらったりするためには、当然その対価を支払わなければなりません。それが二一世紀になって始まったと言われる、パーティ券収入の上納システムに繫がったのでしょう。
岸田さんは、宏池会という学級の委員長ではありましたが、いきなり生徒会長になってしまいました。とはいえ、「軍団」のボスが「大親分」になったわけではありません。前述したとおり、派閥という軍団の個性が失われた「脱個性化」のシンボルです。
今の派閥は、二つの面──政治闘争と、政策思想・理念において個性がありません。さらに言うなら「軽質化」です。ライトになりました。各派閥が解散の方針を表明しましたが、それでもライトな“派閥のようなもの”は残るでしょう。
【プロフィール】
◆佐藤優(さとう・まさる) /1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館書記官、国際情報局主任分析官などを経て現職。著書に『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞)、『知性とは何か』など。
◆山口二郎(やまぐち・じろう)/1958年生まれ。法政大学法学部教授。東京大学法学部卒業。北海道大学法学部教授、オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ客員研究員などを経て現職。専門は行政学、現代日本政治論。著書に『民主主義は終わるのか』、『政権交代とは何だったのか』など。