このポーランド孤児救出問題もそうだ。なぜ日本軍だけが孤児を救出することができたのか? それはロシア革命潰しを狙った各国軍が早々に見切りをつけて引き揚げたからである。フランス軍のみならず、最後まで粘ったイギリス軍も、いつの間にかチェコ軍団が消滅し「救出」という大義名分を失ったアメリカ軍も、早々に撤兵した。
しかし、あくまで「バイカル博士の夢」の実現を望んだ日本軍は、各国の非難をものともせずにシベリアに居残り続けた。この居残りの動機を「正」か「悪」かと問えば、どちらかと言えば「悪」だろう。しかし、日本軍がそうしたからこそポーランド孤児を救出することができたのであり、結果的にポーランドは東欧一の親日国になったのだ。人間の世界とはこういうものであり、その軌跡が歴史だ。ここであらためて「鬼平のセリフ」を噛みしめてもらいたいところである。
ところが、ポーランドは長い間この事実を国民に知らせることができなかった。ソビエト連邦の圧力によって、ポーランド将校らが一九四〇年にソビエト軍により大虐殺された「カチンの森事件」などと同様に、ソビエト軍の蛮行を学校で教えることができなかったのだ。ちなみにカチンの森事件についてソビエトは、「あれはナチス・ドイツの仕業」と叫んでいた。日本の左翼歴史学者も多くがそう主張していた。「ソビエトは善玉」だからだ。こんな連中に歴史を語る資格は無い。
このポーランド孤児の窮状を日本に訴えたのは、アンナ・ビエルキエヴィッチという民間人の女性だった。彼女はシベリアから日本に渡り、外務省そして日本赤十字を訪ねて救援を依頼した。当時、ポーランドと日本は正式な国交も無かったのだが、人道的見地から見捨てておけないと救出が実行されることになった。
注意すべきは実働部隊として動いたのは日本陸軍であり、陸軍の最高首脳部つまり軍国主義の象徴として非難される田中義一陸軍大将(のちに首相)らが、この決断を下しているということだ。日本に救出されたポーランド孤児の総数は五十六名だったが、彼らは日本での手厚い看護によって回復し無事祖国に戻った。そして彼らは、日本人看護婦松澤フミのことを語り継いだ。彼女は腸チフスにかかった孤児をつききりで看病し、患者の命は救ったが感染し命を落としたのである。
戦前の軍歌、いや軍事歌謡というべきか、日本人なら誰でも知っている『婦人従軍歌』という歌があった。その三番に、「やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷(にな)いゆく 天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人」(作詞加藤義清)とある。たしかに、こういう歌に示されるような事例も紛れも無く実在したのだ。
それが複雑な、人間というものの歴史、である。
(第1440回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年12月27日号