大阪大学大学院の吉川徹教授
信仰に流され自殺者も…
「丙午信仰」を長年研究し、今年2月に『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(光文社新書)を上梓した大阪大学大学院の吉川徹教授はこのような見解を示した。
「60年に1度、丙午の年に『女子が生まれてはならない』、『生まれた女子は気性が荒くなる』、『気性が荒いので婚姻厄難をこうむる』という3点がセットになったのがこの迷信。十干十二支は古くから東アジア全域で使われていますが、他のアジア社会にはない、日本だけの迷信ということも特徴です。
迷信が広まるようになったのは今から約360年前の江戸時代、1666(寛文6)年です。江戸時代には堕胎や嬰児密殺などが行われ、1846(弘化3)年の『弘化の丙午』では同年人口が前後の年より約12%少なかったことが分かっています。それでもこれは『昭和の丙午』の出生減の半分以下の規模です。いかに1966 年の出生率が特異だったかがわかります」
「昭和の丙午」の大騒動は、「明治の丙午」が大きく関係していた。1906(明治39)年の「明治の丙午」の出生数は139万4295人(前年比約5万8000人減、約4%減)にとどまったが、その年生まれの女性たちが婚姻年齢に差し掛かった大正末から昭和初年に悲劇が起きた。その頃、丙午生まれで結婚できないことを嘆く女性の自殺が相次いだのだ。
「当時、丙午世代の女性たちは自由を謳歌するモダンガール(モガ)として注目されましたが、それを許さない、伝統的価値観を強いる多くの人びとが『丙午迷信』を理由に彼女たちをバッシングしたのです。相次ぐ自殺を新聞が報道したため、江戸時代とは比べ物にならないほど加速度的に全国に丙午迷信が広まりました」(吉川教授)