母は短距離選手だったという
日本サッカーで唯一メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪で得点王に輝いた釜本邦茂さんが8月10日、肺炎のため入院先の大阪府内の病院で死去。81歳だった。近親者による通夜・葬儀が大阪府内で営まれ、サッカー関係者や親友の松平健氏などが参列した。
国際Aマッチ75得点の日本記録を持ち、日本サッカーリーグではヤンマーの選手兼監督も務めた。引退後はガンバ大阪の初代監督に就任し、日本サッカー協会副会長や参院議員などを歴任。日本サッカー協会では強化推進本部長として日本サッカーが世界に通用するために尽力した。
『週刊ポスト』の取材では、「サッカーを続けられたのは母のおかげ」と明かしたことがあった。母・ヨシヱさん(故人)は若い頃に五輪候補にもなった短距離の選手で、釜本さんはこう話していた。
「母は選手時代、日本人女性初の五輪メダリストとなった人見絹枝さん(1928年アムステルダム五輪・銀)と競い合ったと言っていました。身長163センチで明治生まれの女性としては大柄で、80歳まで腰も曲がらずピンと伸びていた人だった。
母は勉強のことはあまりうるさくなかったが、とにかく勝気な人だった。小さい頃にケンカして負けた時は、“もう1回行ってきなさい”と家に入れてもらえなかった。兄たちもよく木に吊るされていた。33歳の厄年で男の私を産んだことを自慢していましたね」
当時は野球全盛期。釜本さんも野球少年だったが、小学校の教師に「野球は日本と米国だけ。サッカーなら世界中にいけるし、五輪にも出られる」と言われて中学ではサッカー部を選んだ。そのサッカーを続けられるかの分かれ道が、高校進学時にあったという。
「自分としてはサッカー強豪校の山城高に行くと決めていたが、反対したのは父(正作さん、故人)だった。父は剣道3段の腕前で、警察官を務めた後、軍人として陸軍中佐まで務めた厳しい人だった。剣道をやっていたからやはり背筋をスッが伸び、身長175センチは明治生まれでは群を抜いて長身でした。
その父は私に普通科の高校に進んでもらいたかったようですが、山城高は学区制の関係で商業課程しかなかった。ただ、そんな父を“本人がやりたいと言っているんだからいいじゃない!”と説得してくれたのは母だった。そこから早大に進んで日本代表にもなれた。
そのうちに父も“サッカーは(11人対11人の)チーム戦だが、目の前の相手との戦いであり、絶対に勝たないといけない。そのためには個人技を磨け”と言ってくれるようになった。そんな両親のお陰で私のサッカー人生は花が咲いたと思うね。“出世すれば私の手柄”と言っていた母の思い描いたような出世ができたかわからないが、要所で父を説得してくれたおかげで今があります」
母が行けなかった五輪でメダルを獲った釜本さん。天国で再会して何を話しているだろうか。
※週刊ポスト2025年8月29日・9月5日号