9歳、中国での国内試合にて(高橋成美さん提供)
浅田真央という脅威を前に、見出した「自分の道」
シングルスケーター(ソロ)からペアへの転機は一学年上の「浅田真央」という脅威を突きつけられたことだ。浅田は当時全日本ノービス選手権や全日本ジュニア選手権などで次々に結果を残し、「天才少女」と騒がれていた。
「私は小学4年生から父の転勤の都合で中国・北京で生活していたのですが、中国はペア強豪国。そうした環境で自然に『ペアってかっこいいな』と思っていたところに、真央ちゃんの圧倒的な才能を目の当たりにして、シングルで競うのは無理だなと。悔しさを通り越すぐらい、真央ちゃんの演技は素敵で魅力的でした。でも同じフィギュア界にいるなら、なんとかして一緒にオリンピックに行きたい。そこで候補となったのが、真央ちゃんとは被らない“ペア”という種目でした。私の小柄な体格が活かせることも大きかったです」
父親からは、常日頃「壁にぶつかった時は、他に道がないかを考えろ」と言われていた。その教えも、高橋さんをペアに導いた。
ドッキリ企画でのピュアな言動が話題だ
厳しかった中国の選手育成環境
自分の道を見出したとはいえ、2000年頃の中国の選手育成環境は、想像を絶する厳しさだったという。
「今は改善されていますが、当時は1グラム単位で体重が管理され、増えていれば減るまで走らされる。水分補給をする暇もない。行き過ぎた指導もその当時は当たり前でした。私は外国人だからマシなほうでしたが、後年、体にガタがきたし、成長期の栄養不足やハードな筋トレの影響で身長は低いまま、生理も26歳まできませんでした。体に相当重い負荷をかけていたことは、今になって痛感します」
スパルタ指導を乗り越えられた理由は、「家という絶対的に安心できる場所があったから」と断言する。
「中国での仲間のなかには辞めていく子も多いし、精神的におかしくなっちゃう子もいました。私は学校ではチヤホヤしてもらえたし、家に帰れば親が守ってくれた。厳しい指導と心の拠り所が絶妙なバランスで保たれていたから、頑張れたんだと思います」
中国は完全なる実力社会。結果を出せば周りの態度が変わる経験が高橋さんを奮起させ、強くした。
日本では、職員室に呼び出されて「目立ちすぎ」
高橋さんは父親の仕事などの事情で、大学入学までに国内外で計14もの学校を転々とした。転校生活では友達作りが難しかっただろうが、高橋さんには試行錯誤の末にたどり着いた処世術がある。
「最初は転校のたびに“キャラ付け”を考えていたんです。控えめな方が気に入られるかなとか、はっちゃけたほうが受け入れてもらえるかなとか。中国人のフリをしてみたこともありました。でも、2~3日後にはいつもの自分に戻っちゃう(笑)。だったら相手にどう思われるかよりも、初対面から“素”を出したほうが楽じゃんと開き直れたのが、中2の頃です。嫌われたら嫌われたで仕方ない。
それよりも、どうせ転校しちゃうんだから、時間が限られている中で、その人に自分の記憶を残したいという焦りにも似た気持ちがありました。転校するから人間関係も適当という考え方だったら、何も残らない。そう思い至り、積極的に、正面から人と向き合うようになりました」
その信念が語学力を伸ばしたのだろう。