小沢一郎一覧

【小沢一郎】に関するニュースを集めたページです。

小沢一郎のもう1人の宿敵だった野中(時事通信フォト)
壁を壊した男・1993年の小沢一郎「総理とはいずれ新・新党ということまで一致している」
【1993年の小沢一郎・連載最終回】非自民連立政権をついに実現した小沢。しかし、壁を壊したその「剛腕」は、あちこちに大きな歪みを生んでいた。ジャーナリスト・城本勝氏がレポートする。(文中敬称略。第1回から読む) * * *誕生会 一九九三年八月二五日夕刻。東京・日比谷の富国生命ビル地下二階の「藪蕎麦」で、番記者主催の羽田孜誕生会が開かれていた。細川内閣で副首相兼外相に就任し、前日に五十八歳となった羽田は、トレードマークの半袖スーツ「省エネルック」で挨拶した。「何としても政治改革を成し遂げるという思いで自民党を飛び出したが、よくここまで来た。寄せ集めでバラバラだという批判もあるが、志を一つにすれば心配ない。マスコミの諸君も悪口もいいが、たまには激励もしてくれよ」 いつもながらの熱い「演説」に記者たちも拍手で応えた。 気難しい政治家が多い竹下派の中では、庶民的でフランクな羽田は担当記者の間では断トツで人気があった。藪蕎麦で恒例となっていた記者主催の誕生会も年々参加者が増え、経済部や派閥担当以外の記者もいて四十人以上が集まっている。決して広いとは言えない店内は、満員の状態だった。 壁際の小上がりには私より一回りも先輩のベテラン記者たちが陣取り、そこは「長老席」と呼ばれていた。私は、羽田の話もさることながら「長老記者」たちの政界裏話や政局の見立てを聞くのが楽しみだった。 お酌をして回りながら話を聞いていると、みな細川政権の先行きには悲観的だった。「羽田さんは楽観的だが、イッちゃん(小沢一郎)と武村(正義官房長官)は水と油だ。権力の二重構造どころか三重構造になるとまとまらないな」「問題は武村氏が、反小沢のシンボルになっていることだ。小沢氏が『官房長官は勝手なことを言いすぎる』といくら怒っても、相手は毎日記者会見や懇談をやっている。小沢氏は、記者会見以外一切しゃべらない。結局マスコミを敵に回すだけだ」「イッちゃんは、朝回り夜回りも受け付けないんだって? そりゃ情報戦で武村に勝てるわけがない。政治記者にとっては情報をくれる政治家がいい政治家だからな」 一番年かさの記者が言った。「おいおい、今日は羽田さんの誕生会なのに小沢の話ばかりかい。羽田、小沢の関係がしっかりしていれば大丈夫だろう。いや、それが一番の心配事か」 皆で大笑いしたが、私は若い記者たちにビールを注いで回り談笑している羽田を見ながら、確かにそれもこの政権の行方を左右しかねないという予感がしていた。原稿用紙 この頃、連立政権の命運がかかるもう一つの問題が進行していた。社会党の委員長交代である。 八月末、連立与党は、「小選挙区二百五十議席、比例二百五十議席」を柱とする選挙制度改革法案を決定した。社会党の主張に大幅に配慮した内容だったが、そもそも社会党には小選挙区への反対意見が根強い。これを機に政治改革担当相でもあった山花貞夫・委員長は、責任論が蒸し返されて辞任、曲折の末、九月二五日に左派に担がれた村山富市が委員長に就任した。 村山は小選挙区反対論で自民党の梶山静六と連携していたし、「小沢の強権的なやり方が嫌いなんじゃ」と公言していた。 経済が低迷し、政治改革より景気対策を求める声も出始めていた。コメ市場の部分開放問題も山場を迎え、社会党は連立離脱をカードに抵抗を繰り返した。その影響で細川が年内成立を公約した政治改革法案の審議は、遅れに遅れていた。 連立与党内の空気が険しさを増していた一〇月下旬のある夜、私は、久しぶりに清水谷の参院議員宿舎に平野貞夫を訪ねた。 平野は座卓に原稿用紙を広げて何かを書いていた。「総理(細川護煕)から頼まれましてねえ。このまま何の譲歩もなしで強行突破となると与党内が持たない。修正も考えるように小沢先生を説得しろと言うんですわ」「小沢さん、強行突破論ですからね。中途半端に妥協しても社会党はまとまらない。いっそ自民党も社会党も分裂させてガラガラポンにしたほうが手っ取り早いんじゃないですか」 私がそう言うと、平野は笑いながら答えた。「あんたも過激ですなあ。小沢先生はもっと柔軟ですよ。とにかく法案を通すことが大事。小選挙区にすれば、いやでも再編です。衆院さえ通せば参院は何とかなる。憲法五十九条がありますから。そのためのシミュレーションを作っているところです」 私は衆議院手帖に載っている憲法五十九条を確認した。 そこには「参院で否決された法案は、衆院の三分の二の多数で再議決すれば成立する」、「参院が六十日以内に議決しなければ否決したものとみなす」とある。 仮に参院で否決されても再議決、審議ボイコットで採決できなくても衆院通過から二か月後の一月中旬まで延長しておけば、再議決できる。「しかし、衆院で三分の二なんかないですよね。これを使うには無理があるのでは」 私がそう尋ねると平野は、「自民党の改革派が大量に賛成に回ります。社会党にもいる。もし足りなくても、それで解散すれば圧勝です。そのシミュレーションですよ」 と言った。狙撃手 一一月に入ってようやく与野党協議が始まり、細川首相と自民党の河野洋平・総裁とのトップ会談までこぎつけた。 だが、交渉は決裂。時間切れギリギリの一八日、連立与党は採決に踏み切った。自民党から十三人、与党社会党からも五人の造反が出たが、与党案が衆院を通過した。 しかし、会期末が迫るなか、減税などの景気対策を求める声が労働界からも上がり、会期延長と予算編成のどちらを優先させるのか、連立内の対立は一段と先鋭化していた。 そんな頃のある夜、高輪の議員宿舎で民社党の米沢隆を待っていると、野中広務が一人で帰ってきた。「お久しぶりです」 私がそう声をかけると野中も、「おう、あんたか。元気か」 と言いながら、私のみぞおちのあたりに軽くパンチをくれた。 かつては小沢側近だった野中は私の重要な取材先の一人でもあったが、経世会の大分裂で小沢批判の急先鋒になった頃からは、夜回りに来るのを遠慮していた。最近は、予算委理事として細川の政治資金問題などを鋭く追及し「政界の狙撃手」と呼ばれている。「おかげ様で元気ですが、今は連立与党担当で、あちこちからボコボコにされてグロッキー状態です」 私は、野中に付いてエレベーターに乗った。他の記者は付いてこない。「さよか。大変だね。小沢先生にかき回されているからなあ。でも小沢先生も孤立しているのと違うか。景気も悪くなって国民の生活は苦しい。政治改革と言っても世間は付いてこんでしょう」 エレベーターは五階で止まり、私は部屋の前まで付いていった。「庶民が本当に望んでいる改革は何なのか。それを見失うと大失敗しますよ。私も梶山さんも今まで謹慎していたが、これから反転攻勢に移る。そう小沢先生に伝えといて」 野中はそう言うと、ドアを開けながら「寄っていくか」と尋ねた。 私は少し迷ったが「今日はやめときます。そのうちゆっくりお話を伺います」と答えた。野中は「さよか。ならその時に」と言ってドアを閉めた。 結局、それ以後、私が野中の部屋を訪れることはなかった。 この頃、梶山は「月刊文藝春秋」に「わがザンゲ録」という手記を載せた。梶山は「政治改革で景気が良くなるのか、社会党はそれでいいのか」と訴えた。そして小沢について「目標のためには手段を選ばない天才児だが、革命者は大衆を犠牲にする」と書いた。 小沢の剛腕が周りを不幸にするのではないかと恐れ始めた連立与党の政治家を狙ったものだった。水島 一二月に入ると小沢と武村の対立は深刻化した。武村は村山と歩調を合わせて政治改革より予算編成を優先すべきだと主張、政治改革やコメ市場の部分開放問題でも半ば公然と自民党幹部と接触していた。 小沢と近い市川雄一や米沢からは「更迭論」が出され、小沢自身も田中角栄・元首相が死去した一六日夜に、「武村を切れ」と首相公邸に怒鳴り込んだという噂が流れていた。 小沢は二〇日の政府与党首脳会議から全ての会議を欠席した。記者会見で小沢不在の理由を聞かれた武村が「検査入院ではないか」と言ったことで重病説まで流れた。 小沢とメディアの対立もエスカレートしていた。記者会見問題がこじれ、小沢は一切の取材に応じなくなっていた。しかも公の場に姿を見せない。連立政権の最大の危機に、私は小沢の様子が気になっていた。 衆議院の第一議員会館地下二階に、小沢行き付けの理髪室「水島」がある。小沢が散髪に行くタイミングは大体分かっていた。水島に電話して予約が入っているかどうか確かめる。頃合いを見て捕まえる。小沢の機嫌が良ければ話ができる。悪ければ無駄足になる。それだけのことだ。 二一日、水島に電話を入れると私たちが「水島のママ」と呼んでいるオーナーが「先生? 今いるわよ」と教えてくれた。 会館地下二階まで降りて水島に入るとSPがいた。あまり話したことはないがお互い顔は知っている。「先生ご機嫌はどう?」と聞いてみたが、SPは黙って指でバツを作った。奥から「ああさっぱりした。ありがとう」と言う小沢の声が聞こえた。 一目見ただけで、これまでで最悪かもしれないと思うほど、機嫌が悪いことが分かった。私をじろりと睨みつけて無言で歩き出す。私も黙って後を付いていった。 エレベーターに乗っても無言、六階で降りて部屋に行くまでも無言。こういう時は「帰れ」と言われるまでは付いていく。機嫌が悪いからとあきらめていては、小沢から話は聞けない。 事務室奥の応接室まで黙って付いていき、小沢がソファに座ったので、私も向かい側に座った。相変わらず怒った大魔神のように怖い顔をしている。しばらく睨みあっていたが、小沢のほうから口を開いた。「だから、俺は今マスコミとは口をきかないんだ。君も知っているだろう」「まあ、あれですね。生存確認。先生が生きているかどうか確かめないと」 そう言うと小沢はかすかに笑ったような気がした。「あと、色々ご苦労も多いようですから激励。頑張ってください」 ようやく小沢の表情が緩んだ。と言っても、普通に怖い。「分かった、分かった。雑談ならいいから普通に話せ」「私が気になるのは武村さんです。社会党は、どのみち割れるしかない。その時期を先送りしているだけです。だが、武村さんは『さきがけ』を抱えている。官房長官が総理以外に守るべきものがあるとまずい。そこに問題の本質があると思います」「ふん」と小沢は言った。これは肯定だと思った。そして続けた。「だから衆院通過までは我慢したんだ。総理が泥をかぶると言ってくれたから、みんな収まった。問題はこの後だ。総理とはいずれ新・新党で選挙ということまでは一致している。さきがけの議員でもそのほうがいいと思っているのがいる。彼はそれが嫌なんだろう。社会党もそうだが、政界再編に行くのか、今の枠組みに留まるのか。この政権の根本問題なんだよ」 そう聞いて私は少し踏み込んだ。「自民党も割れてはいても執行部は現状維持派です。景気も悪いし予算編成優先だと言って国会を閉じようとしている。官房長官もそう主張していますよね。市川さんは総理に武村を更迭しろと言っているそうですが、ここで体制を変える必要があるのではないですか」 小沢は少し考えて、言った。「それは雑談の域を超えているな。『与党内で内閣改造論浮上』なんて書きたいんだろうが、まだ早い」 ピシャリと言った小沢だったが、不機嫌な表情は消えていた。「あと少しで政治改革が仕上がる。それまでは『忍の一字』だ」 そう言って小沢は、ようやく笑みを浮かべた。特ダネ 一二月三〇日夕刻。私は、東京・赤坂の一ツ木通りをTBSに向けて歩いていた。普段は人通りが多い時間帯だが、今はまばらだ。 TBS会館の前の路地を入るとビルの二階に「ゝ(ちょん)寿司」の看板が灯っていた。店に入ると窓際の小上がりで米沢がすでにビールを飲んでいる。まだ約束の六時前だったが私は「遅くなりました」と声をかけた。すると米沢は「バカモン。俺が早すぎたんだ」と笑った。 この日は珍しく米沢のほうから誘われていた。国会延長がギリギリまで決まらず、年末年始の予定も組めなかった。地元にも帰れず飲む相手がいなかったらしい。 熱燗に切り替えたところで米沢はポツリと言った。「今日は中條(武彦)さんの葬式だったんだってな」 小沢が初当選の時から務めていた元秘書が亡くなり、この日の午前中葬儀が営まれた。小沢が葬儀委員長だった。小沢との関係を考えると米沢が知っていてもおかしくない。「はい。私も参列してきました。中條さんには本当に良くしてもらいましたから。中條さんが辞めてからマスコミとの関係も急速に悪くなった。小沢さんも『政治の師の田中のオヤジに続いて中條さんも亡くし、自分もこの世界から足を洗いたくなる』と挨拶していましたが、半分くらいは本気じゃないですかね」 米沢はいつものニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。「お前たちマスコミが悪い。この政権は小沢が泥をかぶっているから何とかなっている。細川はもちろん、武村だって小沢が後ろで政権を支えているから好き勝手言えるんだろうが。小沢だって人の子だ、嫌になることもあるさ」 私はほとんど同感だったが、あえて言った。「しかし、本来味方のはずの人間まで敵にしています。もう少し説明するなり、頼むなりしないと、結局大きな塊にできないじゃないですか。黙って俺に付いてこいなんて、そんな時代じゃない。私はそれがもったいないと思います」 それからはたわいのない話、大抵は他の政治家の悪口だったが、どうでもいい話題で盛り上がった。私は政治が面白くなったのはいいが、あまりに激しい展開に特ダネが書けないんだと愚痴をこぼした。「俺、特ダネに飢えているんですよ。今年は記者にとっても不作だった」 すると米沢は身を乗り出してきた。「じゃあ、一つ特ダネをやろう。日曜日に細川と小沢・市川が極秘に会って、臨時国会が終わったら内閣改造することを決めたぞ」「また~。それができればいいけど細川さんは武村さん切れないでしょう。官邸は全員さきがけだ」 私がそう言うと、米沢ははっきり言った。「細川がやっと決断したんだよ。政治改革を仕上げれば、俺たちは新・新党に進んでいく。そうなると今の体制では無理だ。細川は政治状況も見ながらと言ったらしいが、もう後戻りはできない。ただし、法案が上がるまでは書くなよ。出たら潰れる」 政治記者になって、六年が過ぎようとしていた。難しいのは政治家との距離感だと思っていた。だが、正直に言えば、それは綺麗事だとも思っていた。ひたすら取材対象に食い込むことだけを考えていた。癒着と言われようが、腰巾着とバカにされようが、特ダネを書けば勝ちだと信じていた。 それで法案が潰れようが、政治家が迷惑しようがそんなことはお構いなしだった。ただ、ネタ自体が潰れたら元も子もない。「分かりました。法案成立の瞬間に書くことにします」 その後は店を追い出されるまで、二人で飲んだ。朝まで歌うぞと言う米沢をタクシーに押し込んで、私は赤坂見附まで歩いた。 米沢はもうすぐ五五年体制の厚い壁が、完全に崩れ去ると言った。しかし、自民党と社会党だけでなく永田町のあちこちに飛び散った壁の破片は、何とか元の姿に戻ろうともがいている。山の頂まで押し上げたと思うと、また転げ落ちる巨岩に苦しめられるギリシア神話のシーシュポスのように、小沢の闘いは永遠に終わらないのだろうか。 弁慶橋を渡った向こうにあるはずの小沢事務所のほうを見ながら、さっきメモしたばかりの米沢の言葉を確かめようと思って衆議院手帖を取り出したが、飲み過ぎていたのか、自分でも判読できない奇妙な文字列があるだけだった。 それは、まだまだお前の闘いも終わっていないぞ、と告げているようでもあった。(了。第1回から読む)【プロフィール】城本勝(しろもと・まさる)/ジャーナリスト。1957年熊本県生まれ。一橋大学卒業後、1982年にNHK入局。福岡局を経て東京転勤後は、報道局政治部記者として経世会、民主党などを担当した。2004年から政治担当の解説委員となり、『日曜討論』などの番組に出演。2018年退局後は、2021年6月まで日本国際放送代表取締役社長を務めた。※週刊ポスト2022年6月10・17日号
2022.06.09 11:00
週刊ポスト
「五五年体制」の壁にヒビが入り始めた1993年(新生党結成の記者会見。写真/共同通信社)
壁を壊した男・1993年の小沢一郎 「どうだ。俺が言った通りだろう」
【1993年の小沢一郎・連載第4回】内閣不信任決議案可決により「五五年体制」の壁にヒビが入り始めた。そしてついに、小沢が壁を貫く最後の一手を打ち出す──。ジャーナリスト・城本勝氏がレポートする。(文中敬称略。第1回から読む) * * *二百四十 第四十回衆議院議員総選挙は、一九九三年七月一八日に投票が行なわれた。宮澤内閣に対する不信任決議案が小沢一郎・羽田孜ら自民党議員の大量造反で可決されたことを受けての総選挙である。 その夜私は、渋谷のNHK放送センターの特設スタジオに置かれた開票速報本部にいた。反応取材の担当だったが、各党の消長が明らかになるにつれて、手元の衆議院手帖に書かれた数字のほうが気になり始めていた。「240 230 220」 一週間前、紀尾井町の小沢の個人事務所で、私とある新聞記者の二人で小沢から聞いた数字だ。「自民党が二百四十議席を超えたら自民党政権が継続。こっちはお休みだ。逆に二百二十を切れば非自民政権で決まり。二百二十から二百三十の時が面白い。ここが一番の勝負どころだ」「どの数字に近づきそうですか」 と尋ねた私たちに小沢は、「こういう時の自民党は強い。社会党が踏ん張ればいいが、今の様子だと厳しいかもしれん。選挙はいつも面白くなるもんだ」 と話していた。 スタジオのモニターを見ると現時点で自民党は二百二十三議席だが、追加公認で二百三十には届きそうだ。「小沢の予言が当たるのか」と私は思った。 新党ブームの強烈な追い風に乗って羽田派が衣替えした新生党は、五十五議席と躍進した。公明、民社、社民連も堅調だ。しかし、社会党は七十議席と、五五年体制以来最低の議席に落ち込む惨敗。その他の非自民系を加えても、ざっと二百十議席余りだった。 一方、新党ブームの中で細川護熙がたった一人で立ち上げた日本新党は三十五人、不信任決議案が可決された後に発足した武村正義の「新党さきがけ」は十三人を当選させていた。 自民党を超えて政権を得るには、この二党を味方に付けることが欠かせない。 二つの党をどう取り込むか、小沢のことだからもう策を練っているだろうと私は考えていた。各党ともあと数日は、選挙の後始末で忙しいから数日後か、いや小沢のことだから、二、三日後には動き出すにちがいない。一日休んで明後日からが勝負だ。六月に入ってからほとんど休みも取れていないし、一日くらいゆっくりしてもバチは当たらないだろうと思っていた。 しかし、またも小沢は待ってくれなかった。潜る 投票日翌日の七月一九日朝、小沢は「知恵袋」の参院議員・平野貞夫に電話を入れた。「比較第一党が自民党になったからといって、弱気の発言をしないように野党幹部と連合の山岸章・会長に伝えておいてほしい。僕は潜る」 私が新生党本部を覗いたのは、さらに一日たった二〇日の午後だった。私は、そこで平野を捕まえ、近くのホテルのコーヒーラウンジで状況を聞くと、こう言った。「社会、公明、民社、社民連、新生は、すでに非自民連立で合意。問題はさきがけ。これは態度がはっきりしない。むしろ自民党と水面下で話をしている節がある。武村さんを筆頭にさきがけは三塚派が多い。三塚は後藤田正晴首班で大連立を狙っている。武村も一枚噛んでいるという情報もあるんですわ」 小沢の知恵袋と言われるだけあって、平野は情報通だ。「日本新党はどうですか」「細川さんは非自民連立でOKでしょう。さきがけとの関係をどうするかですな」 開票直後から、新生党や公明党の一部からは、「細川首班もあり得る」という情報が流されていた。私は気になっていることを尋ねた。「小沢さんは? 細川さんは、日本新党を立ち上げた時も小沢さんに挨拶に来ていたし、以前から親しい関係ですよね。細川さんは表面的には小沢さんの体質がどうだとか言っているけど、元は同じ田中派です。だけど、僕には『羽田さんを必ず総理にする』と言っていたからなあ。今、何やってるんだろう」 そうカマをかけてみたが、平野は、「小沢先生は『潜る』と言ってましたなあ。そうなると私も全く分かりません」 としか言わなかった。 確かに小沢が一度「潜る」と直接取材は難しい。電話にはまず出てこない。居場所を確認するのも困難で、運よく見つけても「付いてくるな」と怒鳴られるのがオチだ。小沢を取材し始めてかれこれ四年になっていたが、その難易度は変わらない。 周辺の口も極端に重くなる。情報漏れをひどく嫌う小沢は、記者にうっかり秘密を漏らすような人間は遠ざけるからだ。この時、平野も、小沢が細川と接触して首相候補を打診するつもりだったことを私に隠していた。極秘会談 七月二二日午前、ホテルニューオータニの一室で小沢と細川が密かに会った。二人は選挙前から何度か連絡を取り合っていたが、実際に顔を合わせるのは選挙後、初めてだった。 その場で小沢は、「我々は非自民の新政権を作れるのなら誰が総理でもいい。羽田さんには固執しない。あなたが適任だと思うがどうか」 といきなり核心をついた。これに対して細川は、「お引き受けしましょう」 と即答。会談は実質数分で終わったという。(『内訟録』細川護熙著) 武村がどの程度関わっていたのかなど、今も不明な点が残されているが、いずれにしても、細川と小沢の二人だけで話し、二人だけで決断したこの瞬間に政権の命運が決したのだ。 しかし、情報管理を徹底したことで様々な波紋も広がった。マスコミには断片的な情報を元にした憶測記事があふれた。二二日の極秘会談は、徐々に漏れ始めていたが、内容を正確に報じた社はなかった。中には、「細川首班の障害になるのなら離党すると小沢が伝えた」と報じた新聞もあった。 NHK政治部も、細川・小沢会談自体は把握していたが、そこで細川が首班候補を受けたのかという核心部分は取れていなかった。小沢は水面下で自由に活動できたが、その分、記者の側にはフラストレーションが溜まっていった。 極秘会談の後、小沢はまず羽田に経緯を説明し、「新生党が首相を取ると非自民のイメージが薄くなる。細川のほうが国民の期待が高まる」と説得した。次いで、社会党、そして公明、民社のごく限られた首脳に説明していく。 小沢が潜っている間に、細川も連立参加の意思を滲ませながらも「首班候補は羽田がいいのではないか」と言い続けた。この秘密主義は事情を知らない議員たちの間に疑心暗鬼を生むことにもなった。 ともあれ、この小沢と細川の水面下の行動が非自民連立政権樹立の決め手になったことは間違いない。その成果は一週間後に形になって現われた。わだかまり 七月二九日午前、衆議院三階の常任委員長室前の廊下は、大勢の記者や政党、省庁のスタッフらで埋め尽くされていた。クールビズなどという言葉さえなかった時代である。みな暑苦しいスーツにネクタイ姿だ。 十一時から非自民八党派の代表者会議が開かれることになっていたが、予定より早く新生党代表幹事の小沢が姿を見せた。小沢番の記者だけでなく、記者や役所の連絡要員と思しき若者が取り囲むように付いてくる。小沢は無言で委員長室につながる控室に入った。 人混みをかき分けるように小沢の後から付いてきた平野を見つけた私は、大理石の壁際に平野を連れて行って囁いた。「これで決まり? 信州と九州のどっちになりますか?」 信州は長野の羽田、九州は熊本の細川だ。「そうですな。九州の人でしょう。これから小沢さんが、市川(雄一)、米沢(隆)、赤松(広隆)に説明するそうですよ」 控室には市川に続いて米沢が入った。どちらも硬い表情だ。三十分も経たないうちに自分の党に戻っていく。私は米沢に付いた。「細川さんでOKなんですか」 米沢はこれまで、私に「細川なんかない。羽田でいいじゃないか」と繰り返していた。前日も「細川には反対だ」と明言していた。しかしこの時は、「俺は羽田だが、党内がまとまれば細川でも仕方ない」と変わっていた。 社会党にも公明党にも異論が燻っていたが、徹底した隠密行動で外堀を埋めた小沢の根回しの結果、すでに他に選択肢はなくなっていた。最後まで自民党との連携の可能性を模索していたように見えた武村も、この時点では非自民連立に付く意向を表明している。 しかし完璧主義ともいえる小沢の手法は、盟友たちにも複雑な影を投げかけていた。少なくとも私にはそう思えた。 投票日直前まで総理の座が手に届きそうだった羽田の心境はどうだっただろうか。確かに小沢の理屈はスジが通っている。羽田でまとめればメディアは「自民党を分裂させて権力を奪取した」と書き立てるだろう。政権交代、政治が変わるというイメージを強調するには細川のほうが新鮮だ。 分かってはいるが、ここまで共に苦しい時間を過ごしてきた間柄である。「小沢に利用されているだけだ」という「忠告」にも耳を貸さず、それが日本の政治のためならいいじゃないかと逆に周りを説得してきた羽田である。 社会党も含めて羽田でいいと言ってくれているのに、連立を確実にするために身を引かざるを得ない。羽田の心境は知る由もないが、私も含めて羽田を取材してきた記者たちには、小沢のやり方にわだかまりが残った。新たな時代 この日の夕方、非自民八党派は永田町のキャピトル東急ホテルで党首会談を開き、細川を首班とする連立政権の樹立を正式に決めた。 これを伝えるNHKニュースは、私たち野党担当の記者が中心となって原稿を書いた。自民党に代わる連立政権を樹立し、日本新党の細川を首相候補とすること、細川が「私としては天命として決意した」と述べたことなど、事実を淡々と記した。 しかし、私は原稿の末尾に「これによって昭和三〇年の社会党の左右統一、保守合同以来三十八年にわたって続いてきたいわゆる五五年体制が終わり、日本の政治は新たな時代に一歩を踏み出すことになりました」と書いた。 NHKニュースとしてはやや情緒的すぎるかなとは思ったが、今年の正月以来、何度も近づいては遠ざかり、手が届いたかと思うと、また跳ね返されてきた五五年体制という厚い壁が、ついに崩れたのだ。公平性や客観性が強く求められるNHKニュースとはいえ取材者の実感を盛り込むことも伝える上では意味があるはずだ。 それでも政治部のデスクに削られるかなと思ったが、デスクは「ちょっと気負いすぎじゃないか……」と苦笑いを浮かべながらも、「しかし、まあいいか」と通してくれた。 立場や担当の違い、社の違いを超えて、ここまで関わってきた多くの政治記者のそれが、共通の思いだった。熱狂と悪夢 細川は、一九九三年八月六日、四十八回目の広島原爆忌に第七十九代内閣総理大臣に指名された。この時、五十五歳。衆議院初当選で首相の座を射止めた。指名を宣言したのは憲政史上初めての女性の衆議院議長・土井たか子である。 組閣の後は、官邸の中庭に出てシャンパンで乾杯して記念撮影。記者会見には歴代首相で初めて立ったまま臨み、記者の質問に原稿なしで歯切れよく答えた。 何もかもが新鮮だった。報道各社の調査で内閣支持率は軒並み七十%を超えた。空前の熱狂的支持であった。 戦国時代を生き抜いた肥後細川家の十八代当主であり、五摂家筆頭である近衛家の近衛文麿の血を引く細川のDNAだろうか。したたかさとしなやかさの両面を持つ細川の特異なキャラクターが、大きな変化を求める時代の意識と一致したのである。そして、それを計算していたかのように一人でまとめあげた小沢の手腕も「小沢マジック」として人々に強く印象付けられることになった。 それは自民党にとっては悪夢の始まりでもあった。結党以来、初めて野党に転落することになった自民党議員には悲壮感が漂っていた。とりわけ梶山静六ら小渕派の幹部たちは党分裂の引き金を引いた負い目もあって積極的な発言は控えていた。 そうした中でも、政権奪還に向けて静かに闘志を燃やし始めた政治家たちもいた。「政界の狙撃手」と呼ばれることになる野中広務もその一人だ。野中が次の標的として狙いを定めつつあったのは、連立政権のど真ん中、細川首相その人だった。 政界に新風を吹き込み、国民的人気を得た細川にカネにまつわるスキャンダルがあったとなれば、政権に与えるダメージは計り知れない。明らかになりつつあった佐川急便からの借入金など細川の身辺に問題はないのか、野中は密かに調査を始めていた。セルシオ 八月二八日午後。東京・千代田区のNHK千代田放送会館で、日曜日に放送する討論番組『政治改革の中身を問う』の事前収録が行なわれた。小沢や三塚博・自民党政調会長のインタビューのためだ。 細川政権は、政治改革関連法案を出し直す方針だ。これにどう対処するのかという問いに小沢は、「自民党の案が出てくれば話し合うのは当然だ」 と柔軟姿勢を示す一方で、「考えられないような妨害、阻止があれば国民に信を問うことがあるかもしれない」 と成立が危うくなれば解散もあり得ると発言した。野党ながら衆院で第一党の勢力を持つ自民党へのけん制だが、果たしてそれだけなのか、私は気になった。 収録が終わると小沢は上機嫌で放送会館の玄関に向かった。NHKの幹部や担当者が見送る中、セルシオに乗り込もうとする小沢に「私もいいですか」と聞くと、小沢は小さくうなずいた。 反対側のドアから後部座席に体を滑り込ませる。私が「どうも」と言うと、小沢は「おう」と言った。それを合図にセルシオは走り出した。「246」を西に走り駒沢通りに入って深沢に向かう。 去年までは毎朝のようにこの逆コースを「ハコ乗り」していた。気難しい小沢だが、なぜか車に同乗して取材する「ハコ乗り」は認めていた。朝、永田町に向かう三十分、じっくり話が聞ける貴重な取材機会だ。ただし、乗れるのは二人まで。私たちは先着二人までというルールを決めていた。 小沢に食い込むために、他に有効な手段を思いつかなかった私は、とにかく早起きレースに勝つことを自分に課した。七時前に深沢に着けば、たいていは二着に入れたし、中には小沢と話すのが苦手だと言って順番を譲ってくれる記者もいた。乗れなかった記者にも、後で中身を教えるルールもあったが、自分の耳で聞いていない話は、所詮信用できない。 まだ三十代半ばだった私にとってもつらい毎日だったが、そうやって少しずつ小沢との距離を縮めてきたのだ。 そんなことをぼんやり思い出しているうちに、小沢のほうが話し出した。「どうだ。俺が言った通りだろう。細川さんは見栄えがいいだけの飾りだという奴がいるが、あの度胸と決断力は大したもんだ。あのバラバラの八党派を一発でまとめるには細川さんしかいなかった」 残念ながら、私はそんな話を聞いた憶えはなかった。「『必ず羽田を総理にする』と言った後は、ほとんど潜っていたじゃないですか」と文句を言いそうになったが、それは飲み込んだ。「自民党は解散を嫌がるでしょうが、むしろ社会党や武村さんのほうが抵抗すると思います。そちらのほうが厄介じゃないですか」 私がそう聞くと小沢は自信ありげに言った。「もちろん法案を通すのは簡単ではない。だが、自民党だろうが与党の中だろうが、法案を潰すようなら解散すればいい。自民党は壊滅だ。社会党は消滅するかもしれない。彼らもよく分かっているさ。今度は、解散権をこちらが握っているんだ」 年の初めから、数々の困難を乗り越え、厳しい権力闘争を勝ち抜いて政権奪取まで来た自信と高揚感がそう言わせたことだろうとは思ったが、私は改めて小沢一郎という政治家が持つ「凄み」のようなものを感じた。 同時に、五五年体制の壁は、まだ完全に崩れ去ったわけではない。ひび割れて脆くなった場所を探し、さらに激しくハンマーやドリルで壊し続けなければならない──小沢がそう考えているのだということにも気づいた。 この闘いは一体、いつまで続くんだろう──。 真夏の太陽が傾き始めた方角に向かって、小沢と私を乗せたセルシオは走り続けていた。(第5回につづく)【プロフィール】城本勝(しろもと・まさる)/ジャーナリスト。1957年熊本県生まれ。一橋大学卒業後、1982年にNHK入局。福岡局を経て東京転勤後は、報道局政治部記者として経世会、民主党などを担当した。2004年から政治担当の解説委員となり、『日曜討論』などの番組に出演。2018年退局後は、2021年6月まで日本国際放送代表取締役社長を務めた。※週刊ポスト2022年6月3日号
2022.05.28 07:00
週刊ポスト
4年近くにわたって“立法も質問主意書もゼロ”だった人たちは?(時事通信フォト)
4年間の活動で“立法も質問主意書もゼロ”国会議員たちの「言い分」
 参院選が迫る中、有権者が知っておきたいのは「国会議員がどれだけ仕事をしているか」だ。本誌・週刊ポストは、『データ分析読解の技術』(中公新書ラクレ)の著書がある政治学者・菅原琢氏が運営する『国会議員白書』サイトのデータをもとに、全衆院議員の「質問主意書提出数」「本会議と委員会での質問回数(発言数)」の2項目を、加えて「議員立法数」を客観的に集計し、各議員の国会での仕事ぶりを調べた。その結果、いずれの項目ゼロだった「オールゼロ」の国会議員は10人いたことがわかった。彼らの言い分を紹介しよう。 なお、集計の対象期間は衆院議員としての前回の任期(衆院選投票日の2017年10月22日から、2021年10月14日の衆院解散で失職するまで)だ。その間、通常国会4回、臨時国会が7回、合わせて11回の国会が開かれていた。 その4年近くにわたって「オールゼロ」だった10人の顔触れを見ると、自民党では甘利明・前自民党幹事長、石破茂・元幹事長、森山裕・総務会長代行、野党は旧自由党党首で立憲民主党の結党に参加した小沢一郎氏など大物議員やベテランが目立つ。 続くのはかつての「民主党のホープ」で昨年の総選挙後に自民党入りした細野豪志氏、さらに自民党の「将来の総裁候補」と嘱望されている小渕優子・元経産相、林芳正・外相、下村博文・元文科相が揃ってランクインしているのには驚かされる。 では、各議員の言い分を聞こう(各議員の回答は別掲の表参照)。 まず自民党の森山氏だ。「私は国対委員長を務めたので、国対の議員は普通質問には立たない慣例がある。質問主意書は野党が出すものでしょう。与党なので出していない」 自民党は野党議員が多くの質問主意書を出すことを「役所の業務に支障をきたす」と批判してきた。だが、国会での質問機会に限りがある以上、与党でも野党でも質問主意書は政府の見解を質す重要な手段のはずだ。 自民党反主流派の論客として知られる村上誠一郎氏の説明は興味深い。「当選回数が多くなると、国会質問は若手に譲るという慣例がある。注目される機会をつくってあげようということ。それと私自身は10年間も党総務会に籍を置き、毎週火・金に政策について議論をし、自民党執行部に意見を申し上げている。加えて言うと、私自身は正論を述べるので、選挙前になるとそうした質問者は党が出したがらないということもあると思う」 細野氏は、別の事情で質問機会が与えられなかったという。「無所属だった期間が長く、(本会議や委員会での)質問の機会がなかった。予算委員会の分科会や憲法審査会で発言を行なっている」(事務所回答) 自民党若手議員の深澤陽一・厚生労働政務官の場合、2020年4月の補欠選挙で当選し、対象期間に議員に在職していたのは1年5か月と短いという事情がある。「基本的には1回の国会で5回質問をしている。名前を載せられるのは心外です」(事務所回答) もちろん、議員の活動は3項目だけではない。自民党なら政務調査会や総務会で法案や予算、税制の党内審査などを行なっている。石破氏も、「各種議員連盟の活動や党政務調査会での活動なども加味していただけると、さらに精度が上がるのではないかと思います」と回答した。『国会議員白書』のサイト運営者・菅原氏はこう指摘する。「国会議員の役割は広く、有権者に代わって政治を行なうことが期待される。国会活動が多少疎かに見えても、それ以外の部分で働いていれば問題視されないというのはその通りですが、国会活動が可視化されていない状況では、国会中継される予算委員会など一部の質疑、大臣や委員長、幹事長や政調会長といった政府、議会、政党の肩書きで政治家の働きが評価されるところがある。しかし、そうした議員は一部で、大部分は重要な役職に就いていない。だから国会活動のデータを加えることで、国会で地道に活動をしている議員や重要な役職ではないのに国会でも活動していない議員を抽出できます」自由に質問できない 自民党では2012年総選挙で大量に初当選した議員たちの不祥事が相次ぎ、“魔の3回生”と呼ばれたが、多くは現在4回生の中堅議員になった。 若手議員は国会論戦で揉まれることで政治家として成長していく。だが、国会には質問時間が野党に多く配分される慣行があり、与党議員には質問機会が回ってこない。そのため、菅原氏が指摘するような「重要な役職に就いていないのに国会でも活動していない議員」が生まれることになる。 旧民主党の事務局長を務めた政治アナリスト・伊藤惇夫氏が指摘する。「委員会などの国会質問時間は概ね与党2対野党8の比率となっています。野党のほうが多いのは、政権与党は政府法案をまとめる際、事前に政務調査会の部会などで議論してから国会に提出する。与党は党内で議論を済ませているから、国会では野党のほうにじっくり質問の機会を与えるという建前です。しかし、安倍長期政権以来、自民党は官邸主導で政策を決めて党内の異論を封じ込める傾向が強まった。 昔の自民党は主流派、反主流派が互いに違う政策を掲げて国会で議論を戦わせていたが、今は自民党議員が国会で質問に立っても、基本的に批判的な質問をさせないようになっています。国会で自由に質問できないということは、やることがないから当然国会議員の質は低下してしまう」 自民党反主流派の村上氏の「正論を言う質問者は党が出したがらない」という説明とも符合する。 その結果、多額の国費をもらいながら、国会での仕事もせず、不祥事を起こす“シロアリ議員”が後を絶たないのだ。※週刊ポスト2022年5月27日号
2022.05.20 16:00
週刊ポスト
与野党の議員たちが今国会でやっていることは…(時事通信フォト)
働かない国会議員27人リスト 立法機関なのに「立法ゼロ」「質問主意書もゼロ」
 国会は会期末まで残り1か月、各党は早くも参院選に向けて走りだした。だが、国民は不安がいっぱいだ。ウクライナ戦争で物価は高騰、オミクロン株も都市部で再拡大の兆しがあり、中国のロックダウンで物流がストップ。今後、日本経済への影響が一層深刻化すると予測されている。 国会でなすべきことはいっぱいあるはずなのだ。 それなのに、与野党の議員たちが今国会でやったことは、「国民の生活」を守るより、自分たちの“役得給料”を守ることだ。 大型連休前の4月15日、国会議員の“第2の給料”と批判される「文書通信交通滞在費」(文通費)の改正案が共産党を除く各党の賛成で成立した。 改正のきっかけは昨年の総選挙(10月31日投開票)で当選した新人議員に、在職1日で文通費100万円(10月分)がそっくり支給され、「1日で100万円のぼったくり」と国民の批判が高まったことだ。文通費は渡しきりで、使途の公表は義務づけられていないから事実上使い放題だ。 思い出していただきたい。通常国会の冒頭、各党は口々に「使途公表」や使い残したお金の「国庫返納」といった法改正案を主張していた。だが、成立した改正案を見ると当選した月の支給額を「日割り計算」にする改正だけで、使途の公表も、国庫返納も盛り込まれていない。逆に、名称が文通費から「調査研究広報滞在費」と変わり、従来なら目的外の「調査研究、広報、国民との交流」にも使えることになった。 とんだ焼け太りではないか。このまま参院選に突入するなど国民への裏切りである。 国会議員にはこの「調査研究広報滞在費」や議員歳費(給料)、立法事務費、政党交付金、公設秘書3人の給料、無料の議員会館や格安議員宿舎など、国から与えられる便益の総額は1人あたり年間1億円を軽く超えるとされる。全部税金だ。 では、そもそも議員たちはそれに見合った仕事をしているのか。 国会議員の仕事は、第一に国会で政策を議論し、必要な法律をつくる(改正する)ことだ。「どぶ板」と呼ばれる選挙対策の地元回りは国会議員が税金を使って行なう「公務」ではない。総理大臣も、選挙の遊説の移動の際は公用車を使わないと峻別する仕組みがあるが、とくに若手議員には地元の選挙活動が「国会議員の仕事」だと勘違いしているケースが少なくない。 そこで本誌・週刊ポストは、「政治過程論」が専門で『データ分析読解の技術』(中公新書ラクレ)の著書がある政治学者・菅原琢氏が運営する『国会議員白書』サイトで公表されているデータをもとに、全衆院議員の「質問主意書提出数」「本会議と委員会での質問回数(発言数)」の2項目を、また「日本法令索引」をもとに「議員立法数」を客観的に集計し、各議員の国会での仕事ぶりを調べた。菅原氏が語る。「有権者は選挙区から選ばれた議員が国会でどんな仕事をしているか簡単に調べることはできません。国会の議事録などの情報はネットで公開されていても、議員ごとにまとめられているわけではないので、他の議員との比較も難しい。それを肩代わりしたのが『国会議員白書』です。有権者には自分の投票した議員の仕事ぶりを確認することができ、次の投票の参考にできます。真面目に活動している議員も、国会での活動が整理されていると励みになるし、活動が低調な議員へのプレッシャーにもなる」 集計の対象期間は衆院議員としての前回の任期(衆院選投票日の2017年10月22日から、2021年10月14日の衆院解散で失職するまで)だ。その間、通常国会4回、臨時国会が7回、合わせて11回の国会が開かれており、2017年総選挙で有権者から受けた負託に対し、どのくらい仕事をしたかの目安になる。昨年10月の総選挙後の質問数や議員立法数は任期途中なので集計に含めていない。 集計結果をランキングにした結果、議員立法数や質問主意書提出数がゼロの議員は数多かったが、加えて国会質問が5回以下(11回開かれた国会の半分も質問していない)なのは27人だった。所属政党の内訳は自民25人、野党2人。ただし、落選した元議員は除外した。 別表でその立法数や質問主意書の数などをまとめているが、ここでは27人の名前を紹介しよう(グループごとに五十音順)。【本会議+委員会発言がゼロ】甘利明氏、石破茂氏、衛藤征士郎氏、小沢一郎氏、小泉龍司氏、後藤田正純氏、中村喜四郎氏、村上誠一郎氏、森山裕氏、山本有二氏、塩谷立氏【本会議+委員会発言が1回】細野豪志氏、森英介氏【本会議+委員会発言が2回】小渕優子氏、薗浦健太郎氏、額賀福志郎氏、林幹雄氏、林芳正氏【本会議+委員会発言が3回】下村博文氏、宮澤博行氏【本会議+委員会発言が4回】木原稔氏、冨樫博之氏、二階俊博氏、浜田靖一氏、藤丸敏氏【本会議+委員会発言が5回】今村雅弘氏、深澤陽一氏※週刊ポスト2022年5月27日号
2022.05.19 19:00
週刊ポスト
「与党と野党の壁を壊す」と言った小沢一郎(1990年7月、ベルリンの壁の視察に行く小沢と筆者)
壁を壊した男・1993年の小沢一郎 「羽田孜を首班にする。それが俺の目標だ」
【1993年の小沢一郎・連載第3回】宮澤喜一首相(当時)の「政治改革」発言は、小沢一郎、梶山静六そして自民党を唖然とさせた。迫る決戦の日。小沢が出した「答え」とは──。ジャーナリスト・城本勝氏がレポートする。(文中敬称略。第1回から読む) * * *方向転換 一九九三年六月五日の土曜日。「土曜出勤」の当番だった私は、正午のニュースを見届けて国会議事堂の中にある「野党クラブ」を出て、どこで昼食をとろうかと考えながら、自民党本部がある平河町の交差点から赤坂見附に向けてブラブラと坂を下って行った。 弁慶橋を渡って赤坂プリンスホテルの入り口を過ぎると「紀尾井町戸田ビル」がある。その五階が小沢一郎の個人事務所だ。一階には前年、羽田孜と共に旗揚げした新派閥の事務所もある。土曜日には誰もいないことが多いのだが、ビルの前の駐車場に小沢のトヨタ・セルシオが停まっていた。本人が来ているのか。少し面倒くさいなと思いながら事務所を訪ねてみると、小沢がいた。「何かあったのか」と逆に小沢に尋ねられた。「いや、宮澤(喜一・首相)さんの『政治改革はやるんです』発言の後、先生は総理に協力すると態度を転換したと言われていますけど、本当かなと思いまして。というか、宮澤さんが頑張っても梶山(静六)幹事長も佐藤(孝行)総務会長も、全くまとめる気はないし、いくら総理でも、鶴の一声とはいかないんじゃないですか」 私はこのところ抱いていた疑問を聞いてみた。ジャーナリスト・田原総一朗のインタビューで宮澤が「政治改革はこの国会でやるんです」と発言した後、小沢はそれまでの姿勢を転換させて、宮澤に協力する姿勢を明確にしていた。 しかし、梶山ら党執行部は、この国会での法案成立は先送りし、延長なしで国会を閉じる方針を変えていない。「そうだな。だが、総理・総裁がこうしたいと言うのを、党の執行部が何も聞かないというんじゃ、政党政治は成り立たない。また小沢の書生論だと言われるが、民主的に選ばれた総理が、権力を正当に行使するのは当然だ。むしろ権力を使わないで、大勢に従うだけというほうが問題だと思うよ。だから俺は、宮澤さんが本気でやるなら協力すると言ってきた。そこは変わってないさ。それでもダメなら政権を代えるしかないということだ」 小沢の話を聞いているうちに私は気づいた。要するに、正当性は宮澤に協力する羽田派の側にある。倒閣にせよ、離党・新党にせよ非は梶山執行部にあると明確にするのが狙いだ。選挙に不安を持つ若手議員のこともあるのだろう。「しかし、国民には分かりにくいし、仮に自民党がまとまっても野党が乗ってくるでしょうか」「さあ、それは野党の中の問題だろう。それより君は昼飯食ったのか。ソーメンがあるから食っていくか?」と小沢は言った。 話は終わり、という合図だ。そろそろ蒸し暑くなる季節に、近くの馴染みの料理屋が差し入れてくれたというソーメンをご馳走になった。事務所を出たところで衆議院手帖に「方針転換? 権力の正当性」と記しながら、随分前に似たような話を聞いたような気がしてきた。 あれはいつだったか……。ベルリンの壁 一九九〇年七月二一日。小沢は統一直前の旧西ドイツ・ベルリンにいた。そして、コンクリートが大きく削られ鉄筋がむき出しになった「ベルリンの壁」の前に立ち、独り言のように言った。「歴史を動かす力は凄いな。僕らが想像もできないことが起きるんだから」 同行していた記者の誰かが「ベルリンの壁が壊れたくらいですから、日本の『自社五五年体制』も壊れるんじゃないですか」と言うと小沢は、「そうだ。冷戦が終わったんだから、世界は大きく変わる。日本も自民党と社会党の馴れ合いではやっていけない。万年与党と万年野党の壁を壊すしかないな」 と、これもまるで自分に言い聞かせるように言った。 前年八九年に自民党の幹事長に就任した小沢は、野党幹部に欧州の選挙制度や議会制度調査のための視察を呼び掛けた。合同で英独仏の三か国の選挙制度を勉強しようというのだ。「小沢の露骨な野党懐柔策だ」という批判も出たが、社会党副委員長・田辺誠、公明党書記長・市川雄一、民社党書記長・米沢隆が同行した。さらに副幹事長だった中西啓介、小沢の知恵袋と言われ当時は衆議院事務局にいた平野貞夫も随行していた。帰国後、「壁無し会」と称して度々会合を開き、その後の政界再編に向けて原動力となったメンバーである。 私は同行記者団の一人に加わっていた。小沢番になって一年余り。無我夢中でひたすら目の前のファクトを追いかけ回すだけの日々だった私にとっては、小沢の話をじっくり聞く時間を持てた初めての機会でもあった。 中選挙区制から小選挙区制に変えれば自民党は必ず分裂する。野党はまとまるしかなくなり、二大政党的なものに再編されていく。それは選挙で選ばれた権力が大胆な政策を実行し、失敗すれば政権が交代することを意味する。そして、それが政治にダイナミズムと緊張感をもたらす──その後一貫して小沢が追求した「政界再編の夢」を初めて聞かされたのも、この時だった。カレースタンド 公明党書記長の市川は、小沢より七歳年上で、官房副長官として小沢が野党対策にあたった頃から関係が深まり、一・一ラインという言葉が生まれた。公明党きっての理論派というだけでなく、論争では相手を徹底的に追い詰める武闘派としても一目置かれていた。政治改革では、腰が定まらない社会党にプレッシャーをかけ続け、小選挙区比例代表併用制案を社会、公明の共同提案とすることにこぎつけていた。 公明党担当ではない私は、廊下ですれ違う時や市川お気に入りの国会中庭のカレースタンドで隣に座った時に一言二言、言葉を交わす程度だったが、一緒に欧州に行ったこともあって、短いやり取りの中でも的確な情報をくれた。社会党内でも若手を中心にこのままでは党が潰れてしまうという危機感が広がり、路線対立も、大勢は徐々に田辺の後継である山花貞夫・委員長の側に寄ってきているというのだ。「宮澤発言」を受けて、社会党と公明党は、そろって「会期を延長して与野党で協議をまとめるべきだ」と表明していた。知恵袋 東京・千代田区紀尾井町の清水谷公園に隣接して参議院の議員宿舎がある。鬱蒼とした木々に囲まれて昼間でも薄暗い古い建物の奥まった部屋に、前年の参院選で初当選した平野貞夫が単身で暮らしていた。 高知県出身の平野は大学院を出て衆議院事務局に入り、議会運営に熟知していたため与野党の幹部から頼りにされていた。とりわけ小沢とは事務局時代から関係が深く、私たちは平野のことを「小沢の知恵袋」と呼んでいた。連合の山岸章・会長との極秘会談や「民間政治臨調」が発表した「小選挙区比例代表連用制」と呼ばれる独自の案にも平野の関与があった。 宮澤発言以降、自民党内は慎重姿勢を変えない執行部と改革を求める若手議員らの対立がさらに激しくなっていた。「それにしても小沢さんはおかしい。宮澤首相を追い込むと言ってみたり、協力すると言ったり。梶山幹事長を更迭でもしない限り法案は通せないけど、宮澤首相にそんな力があるとは思えません。離党覚悟で付いてきた若手議員はかえって不安になりますよ」 この日も一人暮らしの平野のために缶ビールとつまみ持参で夜回りに来た私は、このところ抱いていた疑問を平野にぶつけていた。平野は、まあまあと苦笑いをしながら聞いていたが、暫くすると思いがけない話を始めた。「あんただから言うが、梶山幹事長と社会党の村山(富市)国対委員長が法案の継続審議と内閣不信任案を出さないことで談合したという情報がある。小沢さんは、これを阻止するには、後藤田(正晴)副総理と宮澤総理の主導で法案成立に持っていくしかないという。実は、その案を考えるように指示されているんですわ」 平野は、自民党執行部の頭越しに「政治改革基本法案」のような法案を与野党共同で提案し、一気に成立させる案を考えているという。確かに宮澤や後藤田が、自民党を潰してでも政治改革を成し遂げるという覚悟ならば実現の可能性もありそうだが、それは小沢や羽田が離党するよりも、はるかにハードルが高い。そんなことができるだろうか。私のモヤモヤは一向に解消しなかった。 平野はその週末の六月一二日の土曜日と一三日の日曜日に国会図書館に籠って案を作ると言っていた。その間、永田町は表面的には平穏に過ぎているように見えたが、水面下では最終決戦に向けて重大な事態が進んでいた。 一三日の日曜日の夜、宮澤は渋谷区神南の私邸に梶山を呼び、最後の説得を試みた。河野洋平・官房長官と近藤元次・官房副長官も同席した。 宮澤が「何とか野党との合意ができないか」と求めたのに対して梶山は「自民党内の対立が激しく妥協案の取りまとめは難しい」と繰り返すだけだった。宮澤は「私にできることはありませんか」とまで言ったが、梶山は「総理一人で動いても打開は難しい」と突き放した。 推進派と反対派の対立が深まる中で、無理に野党と妥協しても、逆に妥協を拒否しても分裂は避けられない。それならば、執行部に反対する者を追い出すほうが党にとっての傷は浅い。それに、この逆風下でいくら政治改革だと叫んでも、自民党の資金と組織がなければ次の選挙は厳しい。いざとなれば、小沢に付いていく若手はそれほどいないはずだ──梶山はそう判断していた。 翌日の朝、経済団体との朝食会で、梶山は重大な発言をする。「今週いっぱいしか国会の会期がないことを考えると、政治改革関連法案を成立させるのは百メートル先の針の穴に糸を通すほど難しくなった」 自民党の幹事長が公式に法案成立断念を宣言したのである。これを聞いた小沢は、直ちに平野を呼び、「もはや闘うしかなくなった。野党の不信任案に賛成することで政権を代える」と伝えた。不信任案が可決されれば内閣総辞職か、解散総選挙のどちらかしかない。これまで検討してきたシナリオの中で最も困難な道を進むことになった。それは迎え撃つ梶山にとっても同じように最も厳しい道になる。 ルビコン川をはさんで対峙していた小沢と梶山の間に宮澤が投げ込んだ「賽」は梶山によってどこかあらぬ方向に投げ捨てられた。電気椅子 梶山発言は、永田町を一気に緊迫させた。自民党は政治改革推進本部や総務会で、推進派と慎重派が激論を交わしていた。社会党は、この事態にどう対処するのか、党内で意見がまとまらなかった。自民党が態度を変えない以上、内閣不信任案を提出するのは当然だったが、解散・総選挙となると社会党自体が大きく議席を減らすのは確実だった。 業を煮やした公明党は、一四日内閣不信任案提出の方針を表明、ズルズルと引きずられて、一六日には社会党、民社党もそろって不信任案を衆議院に提出した。提出後に足早に議員会館の自室に戻った民社党の米沢は、部屋のドアを閉めるのも忘れて「地元に選挙だと指示しろ。小沢は不信任案に賛成するぞ」と怒鳴っていた。しかし、この段階でも、与野党とも複雑な対立が交錯し、虚実ないまぜの情報が乱れ飛んでいた。 NHK政治部では政局が山場を迎えると、毎夜、全部員に招集がかけられる。政治部長以下デスク、キャップがそろう中、部屋の中央にパイプ椅子が一つ置かれ、記者が一人ずつその日に得た情報を全て報告させられる。いつ、誰から聞いたのか、サシなのか他社もいたのか、そもそもどの程度確度が高いのか、ギリギリまで詰められて痺れるような緊張感を味わうことから「電気椅子」と呼ばれていた。そこまで詰めに詰めてNHK政治部としての方向性、見通しを固め、翌日朝のニュース原稿を練り上げていく。 しかし連夜の電気椅子はいつになく混乱していた。いったい内閣不信任案は採決されるのか、されたら羽田派は何人が賛成するのか、羽田派は総崩れで賛成者は少ない、いや羽田派以外にも賛成する若手も出そうだ……宮澤が粘り腰で会期延長を議長に頼んでいるという話も飛び込んでくる。「仕方ない。『解散・総選挙の可能性をはらみながら際どい展開が続く』で後は状況に合わせて行こう」 決戦前夜になっても腰が引けた内容に私は不満だったが、さりとて私自身がそれ以上勝負をできる材料も持ち合わせていなかった。白い札 六月一八日金曜日。通常国会の会期末を迎えた国会は宮澤内閣に対する不信任決議案が最後の議案となった。直前まで宮澤が議長斡旋を依頼するなど激突を回避する最後の努力が続いていたが、全てが時間切れとなり、私は衆議院本会議場の傍聴席の前に突き出した回廊に向かった。記者・カメラマンが詰めかけ身動きも取れないほどになっていた。 異様な熱気の中で、午後六時三二分、本会議が始まった。内閣不信任案は、記名投票で議員は自分の名前が書かれた二種類の木札を使って投票する。不信任案に賛成なら白い木札の「白票」、反対なら青い木札の「青票」だ。 名前を呼ばれた順番に一人ずつ投票箱が置かれた演壇に進んで職員に木札を渡すために「堂々巡り」と呼ばれている。最初は議長席から見て左側に席がある野党議員が、次々に賛成の白票を投じていく。その度に野党席から拍手が起きる。 続いて自民党議員の投票が始まった。次々と青票が投じられる中、白い木札を手にした議員がいた。推進派の一人、河本派の簗瀬進だ。議場からウオーッという怒声とも歓声ともつかない声が上がった。その後も次々と自民党議員が白票を投じていく。羽田や小沢も白い木札をしっかりと職員に手渡していった。 メモ帳に正の字で造反者を書いていた私も、二十人を超えたあたりでやめていた。もはや不信任案が可決されるのは明白だ。宮澤は直ちに衆議院を解散することを表明している。一九五五年の保守合同以来、幾多の風雪に耐えてきた自由民主党が、目の前で大きく崩れようとしている。ベルリンの壁にたとえるまでもなく歴史の大きな転換点に立ち会っているのだ。そう思った私は議場にいる一人一人の議員たちの表情を見つめ続けた。 衆議院が解散された翌日六月一九日は土曜日だった。明け方までニュースの処理に追われて帰宅し損ねていた私は、記者クラブのソファで仮眠した後、午後遅い時間になって戸田ビルの小沢事務所に向かった。解散直後に武村正義らが自民党を離党して新党さきがけを結成することを発表するなど、激震は続いていた。羽田派も新党結成に向けてグループの協議が始まっている。小沢も忙しいだろうから、一階の派閥事務所のほうだと思っていたが、土曜日に五階の個人事務所を覗くのは、半ば習慣のようになっていた。「お疲れさまでした」と声をかけながら事務所に入ると、顔なじみの秘書が「小沢先生が奥に居ますよ」と教えてくれた。 小沢の部屋に入ると、いつものソファに小沢が座っていた。気のせいか少しくたびれたようにも見えたが、いつも通りの張りのある声で「おう君か。どうした」と言った。「どうしたもこうしたも、よくここまで来ましたね。僕らは何が起きているかも分からずに追いかけてきましたが、結果を見ると見事だと思います」 私がお世辞半分でそう言うと、小沢は急に身を乗り出してきた。「それがな、実は危ないところだったんだ。ツトムちゃん(羽田孜)が、最後に迷った。総理に『会期延長で必ずやる、応じないと法案も廃案になってしまう』と言われてグラッと来た。ツトムちゃんの一番弱い所を突かれたんだ。だがルビコンを渡って橋も焼き切ったんだ。もう後戻りはできない。それはお互いに分かっていたから腹を決められたのさ」と小沢は打ち明けた。 私は、「そうですか。でも、最後はみんなが一致して歴史的な行動を取れたじゃないですか。僕は政治記者冥利に尽きるものを見させてもらったと思っています」とこれはお世辞抜きで言った。 ところが小沢は、またも私の予想を超えることを言い出した。「いや、本当に大変なのはこれからだ。新党を作ってもこっちは候補者もカネも足りない。少々の風では自民党に勝つのは難しい。君もよく分かっていると思うが、こういう時の自民党は強い。新党で選挙に勝って羽田を首班にする。それが俺の目標だ」 小沢は、すでに次の闘いに思いを巡らせている。いや、小沢の闘いはまだ始まったばかりだったのだと私は思い知らされた。(第4回に続く)【プロフィール】城本勝(しろもと・まさる)/ジャーナリスト。1957年熊本県生まれ。一橋大学卒業後、1982年にNHK入局。福岡局を経て東京転勤後は、報道局政治部記者として経世会、民主党などを担当した。2004年から政治担当の解説委員となり、『日曜討論』などの番組に出演。2018年退局後は、2021年6月まで日本国際放送代表取締役社長を務めた。※週刊ポスト2022年5月27日号
2022.05.19 16:00
週刊ポスト
野党にも再編の動きがあった年だった(左から社民連の阿部昭吾、江田、社会党の山花貞夫、赤松広隆の各氏。写真/共同通信社)
壁を壊した男・1993年の小沢一郎 誕生会で「君らの想像を超える展開になる」
【1993年の小沢一郎・連載第2回】権力の源泉とも言うべき“ドン”金丸信の逮捕は、むしろ小沢一郎の背中を押した。“橋”の次は“壁”を壊すしかない──それが小沢一郎の出した答えだった。ジャーナリスト・城本勝氏がレポートする。(文中敬称略。第1回から読む) * * *お天道様 前自民党副総裁・金丸信が巨額の脱税容疑で逮捕された翌日三月七日は日曜日だった。その夕刻、私は東京・世田谷区深沢の小沢一郎の私邸にいた。まだ報道陣が待機する正面の入り口を避けて屋敷の裏手から事務所のある建物に通じる「木戸口」を使った。あらかじめ住み込みの秘書に連絡して内カギを開けてもらっていたのだ。中で待っていた秘書に無言で挨拶して玄関を入ると、右手に事務室、その奥に応接室がある。小沢はソファに座り私の顔を見ると「おう」と言った。直前まで誰かと会っていたのかネクタイを締めたままで、いつもの落ち着いた表情だった。「エライことになりましたね」と言う私に、小沢は「いや、驚いた。金丸さんがあんなに蓄財していたとはなあ」と言いながら頻りに左右の掌をこすり合わせている。何かを考えている時の小沢の癖だ。 小沢はこの日の昼、予定していた佐世保行きを取りやめて、急遽私邸に番記者を集めて「懇談」している。非公式な会見だが、オンレコ、つまり内容をそのまま記事にできる場合もある。NHKの「現役」の番記者も出席したこのオンレコ懇談で、小沢は、金丸逮捕を受けて「政治資金は一円まで透明化、規正法違反の罰則強化を実行すべきだ。そして腐敗を生む中選挙区制を変えるため選挙制度改革も一括して進めるべきだ」と強調した。あくまで強気に、これを機に改革を加速すべきだというのである。 しかし、すでに郵政相の小泉純一郎は、「もはや選挙制度など議論している場合ではない。政治とカネの問題を徹底してやるべきだ」と“絶叫”していたし、反経世会として結成されたYKKの残る二人、加藤紘一と山崎拓も、そろって「竹下派の金権体質が露呈した。その真ん中にいた小沢に改革を語る資格があるのか」と批判していた。 果たして小沢のその強気が世間に通用するだろうか。何か策はあるのだろうか。私は、それを取材するため密かに小沢に接触することにしたのだ。「これで政治とカネの問題への批判が厳しくなる。すると宮澤喜一・首相と梶山静六・幹事長も政治改革を進めざるを得ないという状況ですね」 私がそう問いかけると、小沢は「そうだ。宮澤総理は追い込まれるよ。梶さんだってそうだ。わが派以外にも自民党の若手には、政治改革をやらないと脱党するというのが結構いるそうじゃないか。執行部も何もしないわけにはいかんだろう」 と言った。私はあえて聞いた。「一方で、竹下・金丸直系の小沢は動けなくなるという人もいる。むしろ批判が強まりますね。どんなふうに転がると見ていますか」「どうかな……」と小沢は暫く考え込んでいたが、やがて言った。「しかし、面白いじゃないか。これで渡ってきた橋を焼き落とすしかなくなった。それは梶さんたちも一緒だ。みんな後戻りはできなくなったということだ。生きるか死ぬか、これからが本当の権力闘争だ」 小沢は立ち上がった。「今日のところはそこまでだ。後はお天道様に聞いてくれ、だな」 そう言うと母屋に立ち去ろうとした。私も「そうですか。なるようにしかならない、ということですかね」と言って立ち上がった。 金丸逮捕という重大な事態に直面したからこそ、政治改革を前進させるしかない──昼間の小沢発言が、単なる「強がり」なのか、それとも何か勝算があるのか、これだけでは判然としない。しかし、私は深追いしなかった。小沢は何事かを考えている。まだ答えが見つかっていないのだろう。その答えが出るまで待つしかない……。ケジメ論 小沢の最側近・中西啓介の麹町のマンションに行ったのは、その夜遅くだった。小沢番OBとはいえ現在は野党担当の私が自民党議員に「夜回り」をかけるのは、一種の領空侵犯だが、こんな時は構っていられない。他社のハイヤーが止まっていないのを確かめてインターホンを押した。 部屋では、いくらか疲れた様子で中西が待っていた。「冷蔵庫から好きなもの出して飲め」と言われて私はビールをもらった。中西は酒を飲まない。「どうなりますか」と聞く私に中西はひと言「シナリオが狂った」と言った。私は、やはり小沢たちの想定とは違う展開になっていると思った。「政治改革は進めろという圧力が強まるでしょうから、執行部も苦しいと思いますが、それにしても、小沢先生は動けないのではないですか。野党の中でも証人喚問で何とか乗り切った『ケジメ論』が再燃するんじゃないでしょうか」 中西はニヤリと笑いを浮かべ「ケジメ論ね。それは離党しろということか? なら離党してやろうじゃないか」と言った。「まあ冗談じゃなく、これで分裂が加速するかもしれんぞ。実は、社会党の連中とも連合の山岸(章)会長とも話した。自動車総連の得本(輝人)会長も応援すると言ってくれている。お前さんも知っての通り、自民党の中にも二十人ほど離党したいと言うのがおる。もう少し先を狙って準備しておったが、動きが急になってきた。だが、正直なところ展開は読めていない。出たとこ勝負になるな」 こうした取材ではメモは取らない。話を聞きながら、分裂加速、山岸、得本、若手二十人という具合に固有名詞や数字を頭に刻んで、部屋を出てから手帖にメモをする。 事態は、思わぬ具合に転がりだしたようだ。私は、徐々に体内にアドレナリンが回り始めているのを感じていた。万年野党 三月一一日午前九時。衆議院第二議員会館の地下にある第四会議室。江田五月が前年旗揚げした議員集団「シリウス」が緊急会合を開いていた。「金丸ショック」は野党側にも衝撃を広げていた。会の冒頭、江田が発言した。「政界再編の動きが止まったとか自社体制が強まるという人がいるが、そんなことはない。羽田・小沢も自民党を飛び出すしか選択肢はなくなったのではないか」 メモを取っていた私は「あっ」と思った。数日前に発売された雑誌「月刊Asahi」に掲載された小沢との対談で、江田は、小沢の政治手法や体質の問題に最後まで疑問を呈しながらも、政界再編にかける小沢の覚悟に期待する発言をしていた。〈やっぱり一発ズドーンと引き金を引くのは小沢さんたちが自民党を飛び出すということだろう、と僕は思いますよ(笑い)〉と。 対談の時点では、半ば冗談のつもりだったのだろうが、政治は当事者の予測を超えて大きく動くことがある。その機会を逃さずに決断し行動していけるかどうか。江田は両手の拳を強く握りしめ何者かを睨みつけるような眼をして結んだ。「羽田派が自民党を飛び出すようなことになれば、対岸の火事は大きいほうが面白いと言っていられない。身を切り刻みながら皆で政治を変える動きを作らなければならない」 江田五月だけではない。民社党書記長の米沢隆は同じ日、私の取材に「小沢が動きにくくなるどころか、これで政界再編に動き出す」と話した。翌一二日には日本新党の細川護熙が福岡で「羽田派は自民党を離れるだろう。そうなれば共同歩調を取ることもあり得る」と述べている。 自民党そのものの存立の危機の中で、退路を断たれた小沢は思い切った行動に出ざるを得ない。その時、政治手法も体質も違う小沢たちと本当に手を組めるのか、野党側の議員たちも「万年野党」の壁を破って新たな世界に飛び出せるか、退路を断たれようとしていた。守旧派・梶山 幹事長の梶山も金丸逮捕の逆風をしのぐ方法を考えていた。金丸の議員辞職後の派閥後継に小渕恵三を担いで小沢・羽田と争い、守旧派のレッテルを貼られながらも、派閥のオーナーである竹下登の力をバックに中堅以上の議員の多くの支持を固めた。その結果、宮澤から幹事長に指名された梶山は、羽田派も加えた「挙党一致」の推進体制を作り、法案審議の主導権を握ることに成功していた。羽田・小沢がどんなに改革、改革と党内を煽っても、肝心の法案を成立させられなければ、単なる「展望なき脱党」にしかならず、それでは若手議員はついていけない。 野党も本音では、一定の議席が確保できる中選挙区が望ましいはずだ。少なくとも、社会党国対委員長の村山富市や公明党の神崎武法、民社党の神田厚ら、梶山が国対委員長時代に関係を培った野党議員たちは、それぞれの党内事情はあっても、中選挙区を変えないほうが望ましいと思っているはずだった。 このパイプを使って、「慎重審議」に徹し、会期末まで協議して時間切れで廃案にするか、継続審議にすれば、すべては仕切り直しになる。「ほふく前進しながら、敵のトーチカを一つ一つ落としていくようなもんです」 梶山は、野党対策にあたる議員たちにそう指示していた。そんな中、やはり政治改革の圧力に追い詰められた首相・宮澤も、局面展開を図って予想外の一手を繰り出した。 四月六日の朝、羽田孜のもとに、宮澤から一本の電話が入る。病気で渡辺美智雄・外相が辞任することになり、その後任に羽田を起用したいという打診だった。羽田と小沢は直ちに協議し「羽田を閣内に取り込んで動きを封じる。ダメなら、羽田派を非主流派に追いやり徹底的に干す」のが狙いだと見て拒否することで一致した。 ところが、急遽幹部を集めて協議したことや、辞退を決めながら羽田が宮澤に会いに行ったことから、「羽田は迷っているのではないか」「派閥が揺れているのではないか」などの憶測を呼ぶことになった。 本会議を挟んで、官邸で二時間以上も粘った宮澤だったが、最終的に羽田が断わると、あっさりと武藤嘉文の起用を決めた。最初から羽田が受けないことを織り込んでいたとか、権力闘争に不慣れな宮澤がポストをちらつかせて失敗したのだとか、様々な見方が乱れ飛んだが、結局宮澤の真意は今一つ判然としなかった。 むしろ、はっきりしたことは、これによって羽田と小沢が宮澤首相のもとで政治改革を実現する、という道は事実上なくなったということだ。それが何を意味するか、宮澤自身が理解していたかどうかは別問題だが、翌日の朝日新聞に掲載されたインタビューでの羽田の言葉が何よりはっきり言い表していた。「ルビコン川を渡り、橋を焼き切っちゃった」 固唾を呑んで成り行きを注視していた江田は、翌日の記者会見で「羽田が入閣を断わったことで、政界再編のゴングが鳴った」と興奮気味に話した。テレポリティクス 四月一一日新宿区河田町。東京女子医大の向かい側にお台場に移転する前のフジテレビ本社があった。どこのテレビ局もそうだが、正面玄関を入ると迷路のような曲がりくねった廊下を進みエレベーターを乗り換えながらスタジオに入る。 この朝、小沢は、フジテレビの『報道2001』のスタジオにいた。 日曜日の朝は、この『報道2001』やテレビ朝日の『サンデープロジェクト』など生放送の情報番組が人気を呼び、「旬の」政治家が競うように出演していた。小沢も、この頃からこうしたテレビ番組をはじめマスコミのインタビューにも積極的に応じるようになっていた。 番組の中で小沢は、「政治改革関連法案の成否は、宮澤首相のリーダーシップいかんにかかっている。もしできずに会期延長とか、継続審議ということになれば、首相が不退転の決意でやらなかったということだ」と言い切った。そして、もしできなければどうするのか、という司会者の問いに、「非常に深刻な問題として仲間内で議論しなければならない」と新党結成に向かう可能性を明言した。 羽田を引き付けて、踏み絵を踏ませようとした宮澤に対する小沢の公共の電波を使った「反撃の狼煙」でもあった。 小沢が言う権力闘争は、かつてのカネとポストで多数派を獲得する派閥の闘いから、マスコミ、特にテレビを使って、国民に直接メッセージを届け、それによって多数の支持を得て権力を奪取しようという姿に変わっていた。テレポリティクスと呼ばれる時代が始まっていたのだ。上機嫌 港区・愛宕神社の参道を上った先に中華料理の隠れた名店「菜根」があった。新緑がまぶしい五月二二日の夕方、ここで各社の歴代の小沢番記者の主催で小沢の誕生日を祝う会が開かれた。小沢は二日後の五月二四日で五十一歳となる。 宮澤の外相就任要請を断わり、羽田が「ルビコン川を渡って橋を焼き切った」と宣言して以来、小沢は、テレビ出演や記者とのオンレコの懇談に積極的に応じていた。その発言は、「改革を進めるならば宮澤を支える」から「改革が実現できなければ内閣を倒す」と徐々に先鋭化し、船田元・経企庁長官ら羽田派の二人の閣僚にも、いざという時は辞任する覚悟を求めていた。 それでも、マスコミの多くは、「なぜ早く離党しないのか」「やはり自民党内の権力闘争が目的ではないのか」などと小沢の行動に懐疑的な論調にあふれていた。 そんな雰囲気の中で開かれたとはいえ番記者だけの会合だ。オフレコだ何だと縛らなくても、お互いにざっくばらんに話ができる。ここでも小沢は上機嫌だった。「だいたい君らは僕がテレビや新聞で言っていることを信用しないじゃないか。宮澤さんが、やるというなら全力で支える。やらないのなら、バイバイだ。単純だろう?君らが変ちくりんなことばかり書くから、世の中の人が惑わされるんだ」 私たちも負けていない。「政治家が本当のことを言うわけないだろう、と言ったのは小沢先生でしょうが」「いや、本当に君らの想像を超える展開になるよ。いよいよ政界再編だ」 大笑いする小沢を見ながら、私は、本当にシナリオができているのだろうか、となお確信は持てなかったが、少なくとも正月の初夢よりは、かなり現実味が出てきたなと感じていた。手洗いに立ったついでに、衆議院手帖を開き、五月二二日の欄に〈一七時愛宕〉と書いたところで、なぜか続きが思い浮かばず、後は書き込まないまま談笑の輪の中に戻っていた。 この頃、膠着状態が続く国会に経済界もしびれを切らせていた。景気の減速が続く中で、政治改革一つまとめられない。しかし、露骨に自民党にダメ出しはできなかった。そこで小沢や羽田ら保守系の政治家に政治の活性化を期待していたのだ。そこから連合も加えて民間政治臨調が結成され、財界と労働界がそろって改革を後押しするという体制が作られた。実は、包囲網にあったのは宮澤・梶山のほうだったのだ。 五月二四日、誕生日のその日、小沢は七か月ぶりに梶山と極秘に会っている。『死に顔に笑みをたたえて』(田崎史郎著)によると、梶山に幹事長辞任を求める激しいやりとりの末、話し合いは決裂し、梶山は、ここで初めて小沢の離党を選択肢に入れたという。一方小沢は『語る』(小沢一郎著)の中で、「梶山は野党と妥協しても成立させたいと話し、それなら支持すると言ったが、実行されなかった」と述べている。いずれにしても、一・六戦争が最終決戦に向けて際どさを増す中で、双方が激突を回避する最後の道を探ろうとして、それができないことを確信した会談だった。「賽」 長年築いてきた自民党と官僚組織が二人三脚で国家を運営し、「万年野党」の座に安住することを覚えた野党第一党が事実上その枠組みを支えるという「五五年体制」。国際環境の変化に対応できず制度疲労が進む中で、金銭スキャンダルも露呈し、ほころびが目立ち始めていた。 それを、傷口を修復して立て直そうとする宮澤や梶山。制度を変えることで、自民党政権そのものを倒す道に踏み出そうとする小沢と羽田。どちらに正義があるか、という問題を超えて、双方が政治的な生き残りをかけた厳しい駆け引きを始めている。 そんな火薬庫にガソリンが充満しつつあるようなヒリヒリした状況に火をつけたのは、誰もが予想しなかった一言だった。 五月三一日、テレビ朝日の番組で田原総一朗からインタビューを受けた宮澤は、「政治改革はやるんです。私はウソをついたことがない」と言い切った。梶山も、自民党の幹部も、そして小沢も、唖然とするしかなかった。根拠も根回しもないまま、総理大臣が発言したことは取り返しがつかない。何か秘策があるのか、それとも……。宮澤が投げた「賽」は、奇妙な転がり方をしてルビコンを渡ろうとする小沢の目の前に落ちた。(第3回に続く)【プロフィール】城本勝(しろもと・まさる)/ジャーナリスト。1957年熊本県生まれ。一橋大学卒業後、1982年にNHK入局。福岡局を経て東京転勤後は、報道局政治部記者として経世会、民主党などを担当した。2004年から政治担当の解説委員となり、『日曜討論』などの番組に出演。2018年退局後は、2021年6月まで日本国際放送代表取締役社長を務めた。※週刊ポスト2022年5月20日号
2022.05.12 19:00
週刊ポスト
日本政治がもっとも熱く、激しかった1年間を振り返る
壁を壊した男・1993年の小沢一郎 1月24日の新年会「必ず自民党は割れる」
【1993年の小沢一郎・連載第1回】ロシア・ウクライナ戦争によって、世界は再び激動の時を迎えた。にもかかわらず、日本の政界にその緊張感は見えない。30年前は違った。ベルリンの壁とソ連の崩壊、東西冷戦の終結という激動の波は、永田町にいた一人の男を突き動かした。「壊し屋」という異名はその後、徐々に否定的な色を帯びていくが、男が55年体制という“もっとも強固な壁”をぶち壊した歴史的事実だけは揺るぎない。その瞬間を間近で見ていたNHKの元番記者・城本勝氏が、秘蔵していた取材メモを開封。日本政治がもっとも熱く、激しかった1年間を振り返る。 1993年の小沢一郎──それは、日本政治がもう一度、ダイナミズムを取り戻すためのヒントである。(文中敬称略) * * *「怪物と闘う者は、自分自身が怪物にならぬよう気を付けねばならない」 フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」初夢 一九九三年一月二四日(日)午後、東京・世田谷区深沢の住宅街にある小沢一郎の私邸。その事務所を兼ねた広大な屋敷の二階の和室で、小沢は、いつになく寛いだ様子だった。近所の鮨屋から取った鉢盛が並ぶ座卓の前で、ぎこちない素振りで生後四か月くらいの赤ん坊を抱いている。いかつい顔に精一杯の作り笑いを浮かべ、「可愛いねえ。お父さんに似ちゃだめだよ」と猫なで声で言う姿は微笑ましいというよりも、やはり怖い。 この日小沢邸にいたのは、珍しく「家族連れで新年会でも」という小沢の誘いに応じて訪れた数人の記者とその家族。所属する会社は違い、同時期に小沢を取材してきたいわばライバルだが、現在はみな直接の担当を外れている。私も半年前に小沢番から野党担当になっていた。取材競争とは別にじっくり話を聞こうと時折少人数で小沢を囲んでいた。それでも家族と一緒に会うことなどまずなかった。 これまた珍しく同席していた和子夫人も、慣れない手つきで赤ん坊をあやす小沢を横目で睨みながら、「せっかくのお休みなのに、ご迷惑でしょう。ごめんなさいね」としきりに気を遣っていた。小沢は前年の竹下派の激しい内部抗争で疲弊した心身を少しでも癒したいと「現役」の番記者ではなく、「OB」で気心が知れた私たちを誘ったのだろう。そう思った私たちも、ひょんなことから米国のワシントンポスト紙に抜かれて、なし崩しに報道が解禁になった皇太子の婚約とか、欧州ではいよいよECの市場統合が始まるとか、二年前心臓病で倒れた小沢が元気になったのも夫人の「愛妻弁当」のおかげだ、などと当たり障りのない話題を選んでいた。 だが、結局、政治の話を熱く語り始めたのは小沢の方だった。「東西冷戦が終わって、世界はいよいよ激動になる。アメリカも十二年ぶりに民主党政権に替わった。日本だけが、今まで通りのぬるま湯に浸かっていられるはずがない。マスコミの諸君は『小沢は派閥の跡目争いで負けた』と次元の低い悪口ばかりだが、ボクがやりたいのは政治を根本から変えることだ。選挙制度を変えれば必ず自民党は割れる。そうなれば政権交代だ。今年は君らの想像を遥かに超えて歴史的な政界再編の年になるだろう」 さすがに家族もいる席で、それ以上具体的な話は出なかったが、私たちは自民党の最大派閥を引き継ぐことで内部から自民党政治を変えようとしていた小沢が、もはやその道を諦め、自民党の外の勢力と手を結んで、権力を奪取することを目標にし始めたのだと感じていた。「そうは言っても、経世会の分裂でエネルギーを使い果たしてるからなあ。まだ五十歳といっても大病もしているし。さすがの小沢さんも、当分は新派閥(羽田派)の足場固めで精いっぱいだから自民党を飛び出すなんて難しいだろう」 会がお開きになって小沢邸を辞する時に私たちは囁き合った。「現役」の番記者に伝えるほどの情報はないことを確認し合う意味もある。「政界再編は小沢さんの初夢ということですかね……」 私は、背広の内ポケットから真新しい衆議院手帳を取り出した。この黒い合皮で装丁された手帳は、五年前に私がNHKの東京政治部に配属された時から、日記代わりの備忘録として使っているものだ。私は、表紙に金文字で「平成五年一九九三」と書かれたその手帳に「歴史的政界再編」「制度を変えて政権交代」と走り書きを残した。一・六戦争 自民党幹事長の梶山静六は、竹下派内では小沢と並ぶ「武闘派」として知られていた。小沢より十六歳年上だが、一九六九年初当選の同期で、同じ田中角栄の門下生として「雑巾がけ」から苦労を共にした。その角栄に歯向かって竹下登を担ぎ竹下派を旗揚げした時も二人が原動力となった。互いに「イッちゃん」「梶さん」と呼び合う兄弟のような関係だった。それが、派閥後継をめぐって、敵味方に分かれて争う事態になったのである。互いに能力を認め合い、手の内を知り尽くした両者の争いは激烈になり、二人の名前から「一・六戦争」と呼ばれるまでになっていた。 小沢が私たちに政界再編の夢を語ってから二週間後の土曜日の朝、その梶山から私邸にいた小沢に電話が入った。国会では金丸信・前自民党副総裁の東京佐川急便事件に絡んで、野党側が竹下に加えて小沢の証人喚問を求め、予算審議が空転していた。「予算審議を進めるために、場合によっては証人喚問に応じてもらえないだろうか」と言う梶山に、小沢は「全て一任します」と素っ気なく答えた。 小沢自身は、以前から「自分は何も知らないので証人喚問でも何でも応じる」と明言していた。「証人喚問に応じることで、竹下派時代の問題を清算できる。梶さんは俺が嫌がっていると思っているのだろうが、ここを乗り切ればむしろ動きやすくなる」と私たちに話していた。 しかし、小沢と共にルビコン川を渡ろうとしていた羽田孜ら羽田派の議員の多くが、証人喚問で悪役イメージが強まることを恐れていた。社会党国対委員長の村山富市ら野党の一部と気脈を通じる梶山が、証人喚問をカードに小沢の動きをけん制していると疑う議員すらいた。私も、「証人喚問で清算できる」という小沢の見通しは甘いのではないかと思っていた。 二月一七日午後、衆院予算委員会で小沢の証人喚問は行なわれたが、結局、二時間にわたる追及でも新事実は出ず、新聞各紙が「野党の追及不発」と書くほど波乱なく終わった。もちろん、「知らない、関係ない」で通した小沢の説明もとても十分とは言えなかったが、野党側にもこれ以上の追及は難しいという見方が広がっていた。 その日の夕方、サシで反応を知りたかった私は小沢を探した。こういう時はまずあらゆるホテルの地下駐車場を片っ端から見て回る。従業員専用の目立たないエレベーターの近くが狙い目だ。少し青味がかったシルバーのトヨタ・セルシオを見つけたのは全日空ホテルの駐車場だった。ほどなく現われた小沢は私を見ると「またお前か」という顔をしながらも立ち止まった。「野党はともかく、あれで世間が納得しますか。我々マスコミは『疑惑は晴れず』と書きますが」 そう尋ねた私に、小沢は「何をやっても君らは悪口を書くだろう。しかし、俺なりにケジメはつけた。これで動きやすくなる。まあ、見てろ。これから仕掛け花火がパチパチだ」と答えた。 そして後部座席に乗り込み、「もう、追いかけて来るなよ」という言葉を残して小沢のセルシオは走り去った。極秘会議 赤坂見附の交差点から弁慶橋を渡るとすぐ左手に現われるのがホテルニューオータニのガーデンコートだ。本館につながる六階でエレベーターを降りると日本料理屋「千羽鶴」がある。証人喚問から三日後の二月二〇日、ここで後に関係者が歴史を動かしたと振り返る出会いがあった。 労働界のトップ、山岸章・連合会長と小沢の極秘会談だ。 それまで山岸は、小沢に良い感情を持っていなかった。小沢が、社会党や民社党の若手議員とともに連合傘下の労組幹部と会合を持っていたことを「組織に手を突っ込んでいる」と感じていたからだ。小沢は山岸との関係を修復するため連合のブレーンでもあった政治学者の内田健三に仲介を頼み極秘会談にこぎつけていた。この席で小沢は「これまでの非礼をお詫びします」と頭を下げた後、改めて「自民党執行部が政治改革に後ろ向きの姿勢なら、離党も辞さない」と決意を語った。 山岸は後にNHKのインタビューで、最後に小沢が畳に手をついて「私たちの身柄は会長にお預けします」と述べたと明らかにしたうえで、「驚いたね。これは演技だとか社交辞令でやっているんではないなと。それで我々もまともに受けて立たなきゃという気持ちになった」とその時のことを振り返っている。 証人喚問にも応じた小沢が「離党も辞さない」と決意を語っている。それが山岸の気持ちを動かしたのだ。 小沢の秘密主義は徹底している。いったん水面下の工作を始めると、その動静を掴むのは容易ではない。この時点で私の手帳には「二月二〇日小沢・山岸会談」とあるだけだ。周辺取材で会談が行なわれたことは分かっていたが、どんなやりとりがあったのかは、まだ掴めていない。しかし「仕掛け花火」の一つであることは間違いない。私はその全体像を知るべく取材を続けた。ワン・ワン・ライス 会談から三日後の夜、私は民社党書記長の米沢隆と麻布十番の料理屋「亀の井」で落ち合った。当時、小沢と公明党書記長の市川雄一の緊密な関係が「一・一ライン」と呼ばれ「有名」だったが、米沢も小沢との関係が深く、記者仲間は一・一に米を加えて「ワン・ワン・ライス」と呼んでいた。口数が多いタイプではなかったが、小沢番時代から接触していた私は、何とか距離を縮めつつあった。 この店は、米沢の信頼が厚かった他社の記者らと度々訪れていた。しかし、今回は彼らには悪いと思いながら、サシで話を聞きたいと米沢を誘っていた。米沢の好物のすき焼きを注文し、牛肉が煮えるのを見ながら、私は気になっていることを質問した。「小沢さん、連合の山岸会長と会ったんでしょう? 連合の中にも小沢アレルギーがあるのに、本当に組めますか?」 米沢は「バカモン、くだらないことを聞くな。小沢が誰と会ったかなんか知らん」と言いながらニヤニヤしている。京都大学相撲部出身の堂々たる体躯に愛嬌のある丸顔がちょこんと載ったような風貌の米沢は、バカモンが挨拶代わりの口の悪さだが、意外に細やかな神経をしている。こういう時の米沢は機嫌がいいのだ。 私は臆せず問いかけた。「だって、連合がいいとなっても、小沢さんが飛び出さないと何も始まらないでしょう。羽田派の若手議員も選挙のことを考えると本音は離党したくない人が多い。小沢さんも迷っているのではないですか」 民社党内は米沢ら労組出身議員と委員長の大内啓伍ら党生え抜きの議員との間の路線対立に、親小沢か反小沢か、という体質の問題も絡んで微妙な党内状況になっていた。米沢は少し考えた後に、いつもの淡々とした口調で答えた。「小沢は腹を決めた。政治改革特別委員会が主な舞台になる。予算が上がったら一気に動き出す。民社の中にもややこしいのがいるが、連合系はまとまっている。こちらも準備を始めた」 それだけ言うと米沢は「話は終わりだ。酒がまずくなる」と、後は日本酒を手酌であおり続けた。 私は手帳に「小沢は腹を決めた。予算後一気に動き出す」と記した。 その二日後の深夜、私は小沢の最側近だった中西啓介を麹町のマンションに訪ねた。一つ年上だが、小沢の「弟分」を自任する中西は私の重要な取材先でもあった。中西は計画の一端を私に明かした。「後三週間、水面下で野党工作をし、会期末に勝負する。宮澤(喜一・首相)がどこまで梶山を抑えられるかだが、恐らく無理やろう。そうなると離党・新党やな」 事態は私の予想を超えて加速しているようだ。「次はどんな花火だ?」私は少し不安になっていた。 しかし、爆発したのは花火どころか、永田町を粉砕するようなメガトン級の爆弾だった。逮捕 金丸の事務所は国会裏手の高級マンション「パレロワイヤル永田町」の六階にあった。九三年度予算案が衆議院を通過した三月六日昼過ぎ、東京地検特捜部からの呼び出しに金丸はパレロワイヤルからすぐ近くのキャピトル東急ホテルに向かった。「確認したいことがある」という特捜検事の呼び出しに、「ちょっと行ってくる」と言い残してホテルに向かったが、そのまま身柄を東京地検に移され、夕方には四億円の脱税容疑で逮捕された。 前年、五億円もの違法献金を受け取った金丸を取り調べもせずに略式命令、つまり罰金刑で処理したことで、東京地検は批判の嵐にさらされていた。その汚名を雪(そそ)ぐため国税局の力も借りて執念の捜査を続けてきた。そして予算の衆院通過という政界もマスコミも一瞬気が緩むタイミングで特捜は不意打ちをかけたのだ。 政界に与えるインパクトは尋常ではなかった。永田町の住人の誰もが真っ先に考えたのは、「これで小沢の戦いは終わる。小沢は終わる」ということだった。金丸に見いだされ、竹下の尻を叩き続け、権力の階段を一足飛びに頂上近くまで駆け上がってきた小沢だ。その権力の源泉ともいうべき金丸の逮捕は、小沢自身の政治生命にも深刻な打撃を与えることになる。私も、一報に接した瞬間は、そう確信した。 ところが──。 永田町でたった一人、まったく逆の発想をした政治家がいた。「面白いじゃないか。これで渡ってきた橋を焼き落とすしかなくなった。生きるか死ぬか、これからが本当の権力闘争だ」 金丸逮捕の翌日、密かに接触した私に小沢はそう言ってのけた。(第2回につづく)【プロフィール】城本勝(しろもと・まさる)/ジャーナリスト。1957年熊本県生まれ。一橋大学卒業後、1982年にNHK入局。福岡局を経て東京転勤後は、報道局政治部記者として経世会、民主党などを担当した。2004年から政治担当の解説委員となり、『日曜討論』などの番組に出演。2018年退局後は、2021年6月まで日本国際放送代表取締役社長を務めた。※週刊ポスト2022年5月6・13日号
2022.05.05 19:00
週刊ポスト
ドンとして(写真/AFP=時事)
二階幹事長、なぜ総理を呼び出せるほどの権力者になったのか
 いまや自民党の“最高実力者”となった二階俊博・幹事長(81)。旅行代理店の全国組織・全国旅行業協会の会長を長年務める「観光業界のドン」としても知られ、菅義偉首相が独断で年末年始のGo Toトラベル全国一斉停止を表明すると、二階氏はその夜(12月14日)、芸能・スポーツ関係者らと開いた“ステーキ会食”に首相を呼びつけ、「二階さんの一声で総理が飛んできた」(二階派議員)という権勢ぶりを見せつけた。 その政治権力はかつて「自民党のドン」と呼ばれた金丸信・元自民党副総裁に匹敵するとも言われる。だが、金丸氏が当時の最大派閥・経世会(竹下派)の圧倒的な数と力を背景にキングメーカーとなったのに対し、二階氏率いる志帥会(二階派。所属議員47人)は細田派(98人)、麻生派(55人)、竹下派(54人)に続く自民党第4派閥で、岸田派(47人)と並ぶ。往年の金丸氏のような「数の力」があるわけではない。 それがなぜ、総理を呼びつけるほどの権力を握ることができたのか。巧みな政界遊泳術 二階氏の“成り上がり物語”を政治経歴から辿ってみよう。 和歌山県御坊市出身で父・俊太郎は戦前からの和歌山県議、母・菊枝は医師だった。中央大学法学部政治学科を卒業して代議士秘書を務めた後、落選していた父の跡を継ぐ形で1975年の和歌山県議選で当選。県議を2期つとめた後、1983年総選挙に自民党(田中派の候補)から出馬して初当選した。いわゆる2世議員だ。 田中派から竹下派と続く若手議員時代に運輸政務次官、自民党交通部会長を務めて運輸族議員の仲間入りをする。その後、一貫して運輸・観光行政に関わる原点となった。 政界遊泳術は巧みだ。 1993年、宮沢内閣不信任決議案を経て竹下派が分裂すると、小沢一郎氏に従って自民党を離党し、細川連立内閣で2度目の運輸政務次官に就任。このころには“影の運輸大臣”と呼ばれた。 その後も新進党、自由党と小沢氏に従って側近の1人として頭角を現し、小渕内閣で自民党と自由党が連立すると、念願の運輸大臣として初入閣。この運輸大臣時代、二階氏は航空会社や大手旅行代理店の社長ら旅行業者2000人の大訪問団を率いて中国を訪問した。 しかし、小沢氏が連立を離脱して自由党が分裂すると、政権にとどまって「保守党」(後に保守新党)結成に参加。小渕氏の急死後、続く森内閣の自公保連立政権でも運輸大臣に再任された。小泉内閣時代の2003年に自民党に復党する。 約10年ぶりの自民党復帰──。二階氏が出世の糸口をつかんだのはこの小泉内閣時代だ。 二階氏は保守新党から一緒に自民党に合流した議員と旧二階派(二階グループ、「新しい波」)を旗揚げして派閥領袖となり、出戻りながら小泉首相から選挙の実務を担当する自民党総務局長に抜擢されると経産大臣、自民党国対委員長とトントン拍子に出世していく。野党幹部の孫の誕生日も覚えていた この頃の興味深いエピソードがある。「二階さんは小泉さんから郵政民営化特別委員長や国対委員長をまかされただけあって、国会対策に非常に長けていた。野党幹部の孫の誕生日まで覚えていて、プレゼントを贈る。そうした野党パイプを使って対決法案の審議をうまく進めていった」(野党議員) 第1次安倍内閣では党3役の総務会長(1回目)に就任、福田内閣と麻生内閣でも経産大臣を歴任して党実力者としてのし上がっていく。 派閥の拡大にも熱心だ。 二階氏は小泉郵政選挙(2005年)で大量に当選した小泉チルドレンのうち、選挙地盤が弱い比例代表の議員を取り込んで派閥を拡大し、一時は衆参20人近い勢力となった。 しかし、2009年総選挙で自民党は大敗。最もダメージが大きかった旧二階派は二階氏を除く衆院議員全員が落選し、派閥が消滅してしまう。前代未聞の敗北だった。 転んでもただでは起きないのがこの政治家の真骨頂だ。 二階氏は残った参院議員2人と伊吹派(志帥会)に合流し、伊吹文明氏が衆院議長就任(2012年)に伴って派閥を離脱すると、自ら会長に就任して二階派に衣替えさせた。いわば、派閥を“乗っ取った”のである。それが現在の二階派だ。 第2次安倍政権になってからは自民党は国政選挙で連戦連勝するが、二階派は選挙のたびに勢力を減らしながらも、無派閥の新人や他派の議員をスカウトして派閥を拡大してきた。「二階さんは“数は力”の信奉者で、スネに傷を持つ議員でも来る者は拒まずの精神で受け入れる。派閥の議員の選挙応援には熱心だが、数多くの修羅場を経験してきた人だから、“落選したら補充すればいい”と割り切っているところがある」(二階派ベテラン議員) そのため、スキャンダル議員や変わり種の個性派議員が多く、自民党内では「二階派は猛獣も珍獣も受け入れる動物園」と揶揄されているが、二階氏は平気の平左なのだ。観光業界以外にも強い影響力 第2次安倍政権以降、二階氏は自民党内での力を飛躍的に伸ばしていく。 2014年に2回目の自民党総務会長に就任すると、総務会長室に各企業や業界団体の陳情が列をなすようになった。「政策の調整は本来なら政調会長の役目で、総務会長は業界の陳情などでつくられた多くの議員立法のうち、どの法案を国会で審議するかの優先順位を決める。しかし、党内で各業界の内情をよく知っていて、睨みがきき、利害調整ができるのはいまや二階さんしかいない。だから各業界の陳情は全部二階さんのところで仕切るようになった」 背景には、自民党の世代交代が進み、長年、各業界を仕切っていた族議員の有力者が引退や落選でいなくなったことがある。 総務会長時代の二階氏は、「中国強硬派」で知られた当時の安倍首相が戦後70年談話を出す前に自民党議員や旅行業界の関係者ら約3000人の大訪問団を組んで中国を訪問(2015年5月)、習近平・国家主席に首相親書を手渡して驚かせた。この年からインバウンドで中国からの訪日観光客が爆発的に増えていく。「観光業界のドン」の面目躍如ということになる。 2016年に幹事長に就任すると、いよいよ権限が集中した。いまや二階氏が強い影響力を持っている業界は観光にはとどまらない。「国土強靭化」を掲げて震災復興や全国防災事業を推進した「建設族のドン」でもあり、野中広務・元自民党幹事長から「全国土地改良事業団体連合会」会長を引き継いで「農業土木のドン」として君臨、建設業界、農業土木業界という自民党の票田をガッチリ握っている。所属議員数では党内第4派閥にすぎない二階派が、政治資金の集金力(2019年)ではトップに立っていることも、二階氏の各業界への影響力の強さの反映だろう。 他の大派閥の領袖とは、存在感が違う。 そんな二階氏も、安倍政権時代は、「一強」と呼ばれた安倍晋三・前首相に“へりくだって”みせていた。 幹事長になると安倍氏の「総裁3選」をいち早くぶち上げ、党内の異論を封じ込めて党則を強引に改正して、「絶対の支持」を表明した。さらに安倍氏が退陣表明する前は「総裁4選」まで口にしていた。 しかし、菅首相とは力関係が逆転した。自民党ベテラン議員が語る。「二階さんにとって安倍さんは自分を幹事長にしてくれた恩人。安倍内閣は最大派閥の細田派、麻生派、岸田派の主流3派にしっかり支えられていたから政権基盤が盤石で、二階さんが逆らえばすぐ吹き飛ばされてしまうくらい力の差があった。 しかし、現在の菅首相にとって二階さんは総理にしてくれた恩人。自前の派閥を持たない菅さんは党内基盤が弱く、二階派の支えがなければ政権維持が危うくなる。力関係からいっても菅さんは後見人の二階さんに逆らえない」 だから二階氏は安倍前首相を宴席に呼びつけたことはないが、菅首相には“ちょっと顔を出さないか”と言えるのである。◆文/武冨薫(ジャーナリスト)
2020.12.26 16:00
NEWSポストセブン
内ゲバ絶えぬ野党 立憲民主は剛腕小沢氏の合流でまとまるか
内ゲバ絶えぬ野党 立憲民主は剛腕小沢氏の合流でまとまるか
 野党は9月の自民党の首相交代をチャンスとみて立憲民主党と国民民主党が合流に動き、一応、民主党以来となる衆参150人という大勢力の新党「立憲民主党」が出現した。しかし、だからといって国民から支持を得られるわけではない。野党が政権を取れない最大の理由は、その“内ゲバ”体質だろう。 野党は民主党以来、意見が違う相手を排除し、分裂を繰り返して勢力を小さくしていった。民主党事務局長を務めた政治アナリストの伊藤惇夫氏は手厳しい。「民主党政権ではまず鳩山由紀夫総理が下ろされ、菅直人内閣ができると小沢一郎氏の排除に動き、次は菅おろし。野田内閣では旧社会党の排除がありました。 野党に転落後は、希望の党旗揚げにあたって枝野氏の勢力が排除され、希望が選挙に負けると今度は排除した側の細野豪志氏を追い出す。 今回の野党合流も大同団結といいながら、国民民主党の代表として合流協議にあたった玉木雄一郎氏らが離脱した。党内で手続きを踏んで決定したことでも、後で反対する。組織としてのガバナンスが効かないし、学習能力もない」 大胆な妥協で意見の違う勢力を結集させる。それができるのは誰なのか。 この立憲民主には、当選17回の小沢一郎氏と当選14回の中村喜四郎氏という保守系の長老たちが加わった。“内ゲバ”体質を変えることができるのは、小沢氏だろう。 小沢氏は「壊し屋」と呼ばれるが、その剛腕で理念も政策もバラバラな政党を強引に結びつけてきた。野党8党派をまとめて細川連立政権を樹立、その後は公明党まで取り込んで新進党を結成し、民主党時代は“水と油”の社民党、国民新党と組んで鳩山政権をつくった。 保守政治家の小沢氏には、野合と言われようと“選挙に勝つため”“政権を獲るため”に一時的に勢力糾合するのは当たり前。目的達成後すぐバラバラになるから結果的に「壊し屋」に見える。 果たして、小沢氏はその豪腕を見せつけることができるのか。※週刊ポスト2020年10月16・23日号
2020.10.07 11:00
週刊ポスト
立憲民主 小沢一郎、中村喜四郎の保守長老合流で大化けも
立憲民主 小沢一郎、中村喜四郎の保守長老合流で大化けも
 菅政権は新型コロナウイルスの影響で延期していた秋篠宮の「立皇嗣の礼」を11月中旬に実施する日程調整を始めた。それが終われば新天皇即位の関連式典は一段落し、首相は解散のフリーハンドを得る。 安倍政権末期には国民の間に「一票の行使」を望む声が強まっていたが、「いま、選挙があっても、あの野党じゃ」とすっかり関心を失っている。そのくらい野党のダメっぷりは際立っている。 野党は9月の自民党の首相交代をチャンスとみて立憲民主と国民民主が合流に動き、一応、民主党以来となる衆参150人という大勢力の新党が出現した。だが、合併交渉にあたった国民民主の玉木雄一郎・代表の一派が“オレ、一抜けた”と参加を拒否して逃げ出し、分裂グセは改まっていないことを露呈した。 新党の党名は「立憲民主党」。新代表には枝野幸男氏が選ばれると、何も変わってないじゃないかと支持率は7%と合流前(11%)より大きく下がった。 役員人事も旧民主党時代から同じ顔触ればかり。それもそのはずで、「党内には7つの派閥があって人事ではポスト争い。どうせ選挙互助会。総選挙に負けたらすぐバラバラになるのに」(所属議員)という声が中から聞こえてくる始末だ。 当の枝野代表は、「いよいよプレーボール。ここから本当の戦いがはじまる」と総選挙をにらんで候補者選びを急いでいるが、野球に例えるなら優勝候補の常勝球団・自民党に対し、二軍や戦力外通告された選手を寄せ集めた新球団が勝負を挑むようなものだろう。 しかも、指揮官はそのまま、試合(選挙)に勝つ気なし。だからアンチ自民党でさえも全く期待しない。自民党の弱点 この立憲民主には、当選17回の小沢一郎氏と当選14回の中村喜四郎氏という保守系の長老たちが加わった。 自民党時代に最大派閥・経世会の中枢で政治を動かした2人は、平成の政治動乱の中で袂を分かち、「不倶戴天の政敵」として政争を繰り広げたが、令和の野党合流で奇しくも“兵卒”として同じ党になった。 そんな政界ドラマも今は昔、自民党から見るともはや“老兵”だろう。ただし、弱小野党にとって2人の加入は“劇薬”そのものだ。田中角栄元首相に選挙術を叩き込まれた2人には、「選挙に滅法強い」という共通点がある。 小選挙区制度の生みの親でもある小沢氏は、全国289の選挙区ごとに、どんな企業や人物が票を動かせるかといった事情を知り尽くし、その剛腕で自民党の支持基盤を組織ごと寝返らせるという離れ業を何度も成功させた。 一方の喜四郎氏は、ゼネコン汚職(※注)で実刑となり、再起後は無所属で出馬しながら自民党候補に7連勝、「無敗の男」の異名を持つ。【※注/1993年に発覚したゼネコン絡みの政財癒着の汚職事件。当時建設相だった中村喜四郎氏は斡旋収賄容疑で逮捕され、懲役1年6か月の実刑判決を受けた】 しかも、誰もが次の選挙は自民勝利を疑わない中で、この2人は違う読みだ。「野党が1つになり、これが効果的に機能すれば絶対に政権を取れる。この1年以内に必ず政権を取る」 小沢氏が講演でそう言えば、喜四郎氏は前回総選挙の各党の得票を分析した上で、「次の総選挙では小選挙区で100議席をとり、比例区も合わせて200議席台にのせれば、過半数が見えてくる」と具体的な数字をあげている。他の議員には見えない自民党の弱点がはっきり見えているようなのだ。政治ジャーナリストの野上忠興氏が指摘する。「昔の自民党議員は“どぶ板”と呼ばれる地元でのミニ集会や企業回りなどで後援会組織を固めていたから選挙に強かった。だが、現在の自民党中堅・若手の多くは、安倍政権の高支持率の追い風で楽に当選し、“どぶ板”を踏んでおらず、後援会が弱い。小沢氏と中村氏には、そうした自民党の弱点がよく見えているはずで、“これならひっくり返せる”という自信があるのでしょう」 連戦連敗の弱小球団に加入した“老コーチ”が、実は、敵の目も味方の目も欺き、短期間で弱小球団の選手たちを優勝候補に勝たせる番狂わせで一花咲かせようとしているのである。※週刊ポスト2020年10月16・23日号
2020.10.05 11:00
週刊ポスト
「孤独な女帝」の謎に迫る(共同通信社)
小池百合子氏 「孤独な女帝」のしたたかさ、逞しさのルーツ
“異端の政治家”小池百合子氏(67)が東京都知事に再選された。4年前の知事選でブームを起こし、勢いを駆って前回総選挙では小池新党「希望の党」を立ち上げて国政に挑む大博打を打ったものの、大負けしてすってんてん。「小池は終わった」と思われていた。 それが今回はメディアあげての批判の嵐の中、新型コロナ対応で再び風をつかんで圧勝してみせたのだ。 政界では“勝負師”の彼女がこのまま4年間、おとなしく知事任期を全うすると考える者は少数派だ。次はいつ、総理をめざして国政に転じるかと与党も野党も戦々恐々としている。 群れず、頼らず、敵をつくるのを厭わない。だから嫌われ者だが、バッシングさえ逆手にとって何度挫折しても蘇る。この「孤独な女帝」のしたたかさ、逞しさのルーツはどこにあるのだろうか。 小池氏は世襲政治家ではない。だが、そのルーツは“政治好き”だった父の勇二郎氏を抜きには語れない。 勇二郎氏は戦時中、日本の皇室は中東のシュメール文明の末裔だとするスメラ学塾に参加し、「民族独立運動」など超国家思想に傾斜していた。戦後は貿易商を営んでアラブ諸国に人脈を広げた。〈大正十一年に神戸で生まれた父は、戦争中海軍に身を置いた。終戦後は、ペニシリンで一儲けした後、重油を関西電力に卸す商売やガソリンスタンド経営など石油がらみの仕事をベースに、三十代で関西経済同友会の幹事を務めるなど派手に立ち回ったようだ〉 小池氏は文藝春秋2008年6月号の「オヤジ」という表題のエッセイでそう書いている。大風呂敷を広げるのが好きな破天荒な人物だったようだ。交友があった右派の政治団体関係者の話だ。「自称・元海軍将校で戦争中は『アジア解放』の使命を軍部から命じられ、戦後は政治家の密命を帯びて世界中を飛び回っていたと。すべてがそんな調子で、娘がカイロ大学を出たのも、『自分が新たな大東亜共栄圏建設のために世界を歩いた結果のコネクション』なんだという。 ただ、地に足はついていないが、本人なりに真剣に政治のことを考えていた人だった。唐突に電話をかけてきて、『いま私が総理大臣だったらこうする』という話を延々と聞かされた」 石原慎太郎氏が1968年の参院選全国区で出馬すると、勇二郎氏は関西地区の責任者となってトップ当選させ、自分も1969年の総選挙に旧兵庫2区から立候補する。 自民党の公認は得られず、石原氏の政治団体「日本の新しい世代の会」を看板に無所属で戦ったが、結果は約7000票で惨敗した。泡沫候補だった。小池氏が甲南女子高校2年のときだ。 このとき、勇二郎氏の選挙を手伝ったのが、後に自民党から選挙に出て防災担当相となる鴻池祥肇(こうのいけ・よしただ)氏と、石原氏の秘書から副知事を務める浜渦武生氏だった。◆父の人脈を蹴落とした 世襲議員は選挙に出るにあたって親から地盤、看板、カバン(政治資金)を受け継ぎ、世襲でなければ有力政治家の秘書を経験したり、地方議員から国政をめざすなど、いずれも地縁血縁人脈をフルに使って当選を目指すのが常識である。 小池氏は違った。1992年の参院選比例区で日本新党から当選した小池氏は、翌1993年の総選挙で衆院に鞍替えし、父と同じ旧兵庫2区(定数5)から出馬する。そこには鴻池氏が現職代議士として地盤を築いていたが、そこに割って入った小池氏は土井たか子氏に次ぐ2位で当選、鴻池氏は落選する。父の人脈を利用するのではなく、逆に戦って蹴落としたのだ。 もう1人の浜渦氏も、小池氏が都知事に就任すると石原都政時代の築地移転問題で都議会の百条委員会にかけられて厳しい追及を受けた。 国会議員となった小池氏は、日本新党時代は細川護熙氏、新進党と自由党では小沢一郎氏、自民党入党後は小泉純一郎氏と時の有力者の側近となり、頭角を現わしていく。 永田町の“出世の方程式”は、実力政治家の子分となり、下積みを経験しながら政治キャリアを積む。自民党であれば、派閥組織の中で政務官、副大臣、大臣とサラリーマンのように年功序列でポストがあてがわれる。ここでも小池氏のやり方は型破りだった。政治評論家・有馬晴海氏が語る。「閨閥を持たない小池氏は、世襲議員と違って組織の中では出世が遅れてしまう。だから有力者に引き立ててもらったというより、自分から有力者に積極的にアイデアを売り込んだ。サラリーマン政治家ではなく、ベンチャーなんです。だから有力者の力が衰えたり、情勢が変わると踏み台にして別の有力者に乗り換え、自分の力でステップアップしていくしかなかった」 組織の中で出世したわけではないから、決まった後見人もいないし、子分もできない。自らの政治勘だけを頼りにリスクを取って勝負に出る。「孤独な女帝」はこうして生まれた。 自民党が閨閥なき異質の政治家の国政復帰を警戒するのは、父譲りの破天荒な血で政界秩序をかき回されることを恐れているのかもしれない。※週刊ポスト2020年7月24日号
2020.07.10 07:00
週刊ポスト
次の総理にしてはいけない議員 岸田文雄、石破茂、小泉進次郎
次の総理にしてはいけない議員 岸田文雄、石破茂、小泉進次郎
「一強総理」の重石が取れると、自民党では安倍首相のイエスマン、面従腹背でチャンスを狙っていた者、何度挑んでも勝てなかった政治家たちが“待ってました”と次の首相レースに名乗りを上げ始めた。 だが、果たして彼らはポストコロナの時代に必要なリーダーの資質を備えているのか。 かつて自民党実力者の金丸信・副総裁は、「平時の羽田孜、乱世の小沢一郎、大乱世の梶山静六」と人材の豊富さを誇る言い方をした。 しかし、いまや自民党には「乱世」や「大乱世」を乗り切ることができそうな人材が払底している 政治の裏表を知り尽くしたOB議員、政治学者、ベテラン記者が実名で「この政治家だけは次の総理にしてはいけない」と突きつける。“ほっこりしか言わない”岸田文雄・政調会長 政府配布の布マスクを毎日律儀に装着し、議員会館で「アベノマスクマン」と呼ばれている岸田氏は、安倍晋三首相や麻生太郎副総理の“意中の後継者”と見られている。「岸田さんとテレビでご一緒させていただいたとき、どういう政策をしたいのか、憲法9条や外交についての考えをきっちり聞こうとしたが、最後まで言わなかった。口にしたのは、『ほっこりとした政治』をしたいという言葉だけでした。 これからの時代、リーダーが自分の意見を発信できないと国民はついていかない。いくら人柄が良くても、存在感を示せなければ一国のリーダーとは認められないし、長期政権など無理。総理を任せられません」(政治学者の岩井奉信・日本大学法学部教授)「コロナ対策では収入が激減している世帯に30万円給付方針をまとめたが、与党内の反対で一律10万円給付にひっくり返された。あの判断を見ても国民の声を汲み取れていない。岸田氏が総理だったら何も決断できなかったのではないか。アベノマスクをして安倍首相に政権禅譲してもらおうなど全然ダメ」(筆坂秀世・元参院議員)“党内が支えない”石破茂・元幹事長 ポスト安倍の「本命」とみられている。前回総裁選では安倍首相に党員票で善戦し、世論調査でも支持が高い。「経験、勉強、準備もできているが、政治は1人では結果が出せない。安倍内閣の長期政権は党幹部、議員、官僚の忖度で成り立っていた。石破氏は安倍首相とは違うタイプのリーダーだが、どんな形であれ協力体制の構築は欠かせない。その協力を得られるかが大きな懸念材料です」(政治評論家・有馬晴海氏)「保守としては論外。そもそも愛国心がなく、尊皇の意識が弱い。以前、屋形船の会合で一緒になった。そのとき、最後に全員で『海行かば』を歌おうということになったが、彼は『歌わない』と言い、歌わなかった」(西村眞悟・元衆院議員)“経験不足で半分青い”小泉進次郎・環境相 小泉氏も新聞の世論調査では「次の総理にふさわしい政治家」の上位にランクインしている。「総理にしたくないというか、器ではない。いろんな面で認識不足、政治家としてのベースができていない。もう当選4回、国会議員12年目ですよ。党の農林部会長、厚労部会長の時はバックに官僚の指導役がいたが、何も身についていない。今の彼に外交や安全保障、経済、福祉のどれも担う力はない。次期総理なんてとんでもない」(ジャーナリスト・安積明子氏)「言語明瞭だが、経験不足で政治家としては“半分青い”。国会答弁、街頭演説を聞いていると、話すスタイルが父・純一郎元首相にそっくり。父離れできていない」(政治評論家・伊藤達美氏)“嘘を嘘と思っていない”稲田朋美・元防衛相 再起を図る稲田氏が「女性初の総理」を目指して総裁選に意欲を見せている。「今の日本は経済はガタガタ、格差は拡大し、構造的な問題が積み重なっているところにコロナが拡大し、政府の対応に国民の不信感が高まっている。そうした状況では、嘘をついた政治家、信じられない政治家は絶対に総理にしてはいけない。稲田さんは防衛大臣のときに森友問題や自衛隊の日報問題で、平気で嘘をついた。安倍総理と似ていて嘘を嘘と思っていないフシがある。総理にしてはダメです」(元経産官僚の古賀茂明氏)※週刊ポスト2020年7月3日号
2020.06.23 07:00
週刊ポスト
議論に終止符が打たれるか(時事通信フォト)
小池百合子都知事 コンプレックス抱え、背伸びしてきた半生
 前回の東京都知事選で「崖から飛び降りる覚悟で」と演説した彼女は、290万票超の得票で圧勝した。あの熱狂から4年。無風状態といわれた都知事選の風向きに変化が訪れ始めた──。 滑らかな堂々たる口調で、万能感溢れる雰囲気が一変、厳しい表情に変わる。緊張と動揺からか一瞬表情が揺らぐが、すぐ立て直す。久しぶりにマスクをとってのぞんだ小池百合子東京都知事(67才)の都知事選出馬会見。その“素顔”が垣間見えた瞬間だった。 7月5日投開票の都知事選で再選をめざす小池知事にふってわいた学歴詐称疑惑。5月末に発売された話題の書『女帝 小池百合子』(石井妙子著、文藝春秋刊)が発端となった。「カイロ大学の卒業証書の原本を出すことは可能かという記者の質問に、正対して答えないまま会見は終わりました。小池知事が疑惑を否定した形ですが、長年にわたる取材を基に書かれた“真実”は無視するにはディテールがありすぎる。その証書が本物かどうかなど裁判をして紙の古さを確認するなどしない限り、もう誰にもわからない。このまま『女帝』が問題提起した『学歴詐称疑惑』は藪の中でしょうね」(都政担当記者) 小池知事が前回の都知事選に立候補したのは2016年6月。自民党東京都連の意向に背いて、いち早く出馬を表明した小池知事は、孤立無援の状態で選挙に挑んだ。 前回の都知事選で小池知事が一気に勢いを持った一幕がある。石原慎太郎元都知事から「大年増の厚化粧がいるんだな、これが」とこき下ろされたときのことだ。「この発言に対し、小池さんは『顔のアザを隠すためです』と怯まず冷静に切り返しました。以降、『女性のコンプレックスを攻撃する旧態依然の男社会に立ち向かうヒロイン』という印象が小池さんにつきました。女性票を集め、都知事選の圧勝劇が生まれました」(前出・都政担当記者) 圧倒的なカリスマ性で支持を集めた小池知事。日本初の女性総理との呼び声も高く、“ガラスの天井”を初めて破るかと期待された。 だが『女帝』では、学歴に関する疑惑だけでなく、これまでのパブリックイメージを覆す半生が綴られている。 東京在住50代の女性は困惑してこう話す。「初めは男性陣がよってたかって小池知事を攻撃している図式にみえたので、彼女を応援していた。ただ、なぜすぐに証書を見せてくれなかったのか。彼女の半生がもし嘘だらけだとしたら何を信じていいかわからない。怖いです」 別の60代の女性の話。「本、読みましたよ。ちょっと信じられない気持ちです。コロナでもテキパキ、活躍されているでしょう。見た目もオシャレでかっこいいですし。その辺りの男性政治家より決断力も度胸もあって好きでした。ただ、そういう目で見ると、前回の都知事選の待機児童ゼロや満員電車ゼロなどの公約は全然守られていないし、いったい本当はどういう素顔なのだろうと…」◆アザと父に翻弄された知られざる少女時代 小池知事は1988年にテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』の初代キャスターに就任、語学力とトーク力を武器としてテレビを中心に活躍。だが、1992年には億単位のキャスター収入を捨て、細川護熙氏(82才)が結党したばかりの日本新党から参院選に出馬し、初当選した。「その後も節目節目で抜群の嗅覚を発揮、細川さんだけでなく小泉純一郎さん(78才)や小沢一郎さん(78才)ら大物政治家の寵愛を受け、環境大臣や防衛大臣という要職を歴任しました。“政界渡り鳥”と揶揄されてきましたが、半面、男社会の永田町を生き抜いて、都知事にまで上り詰めた稀有な女性政治家であることは否定できません」(政治ジャーナリスト) 過去に本誌が「政界渡り鳥」といわれることへの感想を尋ねると、小池知事はこう答えた。「私が権力者のところに渡るのではなく、私のサポートでその人が権力者になるんです(笑い)」 これまで、逆風の中でも崩さなかった強気の姿勢。だが、明かされた彼女の半生は悲哀の道だった。『女帝』には右頬のアザを気にしながら幼少期を過ごしてきたこと、父の嘘や期待に苦しめられたこと、学生時代に親しいと呼べる友人がいなかったことが丹念に描かれている。また、カイロ時代に学生結婚し、1年もたたずに離婚したことを極力他言せず過ごしてきたとも。「小池知事は育ちのよい“芦屋の令嬢”というように振る舞ってきたが実態は違う。豪邸でないことを隠すように過ごし、有名なお嬢様学校では成績もよくなく目立たず、アルバイトをしながら糊口をしのいでいた。そんな少女時代のエピソードを耳にすると、堂々と振る舞えば振る舞うほど、彼女のマスクの下にある本当の姿を垣間見てしまった気持ちになります。彼女は小さい頃の話は本当に口にしないんです」(小池氏を知る永田町関係者) 小池知事は生まれつきの右頬のアザをいつも気にしていた。「石原さんに“厚化粧”と揶揄されたときには当意即妙に切り返しましたが、右頬のアザは実際長い間彼女のコンプレックスだった。容姿や経済状況など彼女はコンプレックスを抱えていたからこそ、その反動で自分を大きく見せようと背伸びして振る舞ってきた人。堂々と陽の当たる場所を歩いてきた人ではないんです」(前出・永田町関係者) 小池知事はそのアザについても、「すべてのエネルギーのもと」と嘯く。《母は私には何も言わなかったけれど人に言っているのを聞いたことがあるの。百合ちゃんは女の子なのに可哀相って……。コンプレックスではなかったけれど、でもそれがあるからこんなに頑張ってこれたと思う》(『AERA』1992年11月10日号) マスクの下に隠された素顔を明かされて、彼女はいま何を思うのか。 冒頭の記者会見から3日後、小池知事はカイロ大学の卒業証書を報道陣に公開した。「政策論争よりも卒業証書の話ばかりが出てくるのは(選挙戦に)ふさわしくない」 と公開の理由を明かし、いつものように余裕の笑みを浮かべた。 この日は、山本太郎・れいわ新選組代表も立候補を表明し、無風だとみられていた都知事選が混沌としてきた。運命の投開票は7月5日だ。※女性セブン2020年7月2日号
2020.06.18 16:00
女性セブン
北川は昨年から妊活をしていたという
北川景子が第一子妊娠、夫・DAIGOの志村けんさんへの強い思い
 第1子を妊娠中であることが明らかになった北川景子(33才)。4月中旬には、東京・港区の神社に夫・DAIGO(42才)とともに、お参りをしている姿もキャッチされた。22日はふたりそろってブログで“おめでた”を報告した。 2016年1月の結婚会見で、DAIGOが子供は3人欲しいと語っていたように、夫婦にとっては待ちに待った第一子妊娠。ここ最近は妊活を続けており、北川は昨冬辺りから仕事の量を減らしていた。 2019年末、北川は印象的なロングヘアをバッサリカット。デビュー以来というショートカットにし、周囲を驚かせた。「艶髪にこだわっていたので驚きましたが、大きな心境の変化があったようです。北川さんが通うヘアサロンは個室も完備で子連れで訪れる芸能人も多い。つい最近もメンテナンスに行っていましたが、なるべく手間がかからないヘアスタイルについて相談していたようです」(芸能関係者) 生まれてくる子供は、ふたりのみならず、DAIGOの血筋である竹下家待望の子供でもある。よく知られているように、DAIGOは竹下登元首相の孫だ。「北川さんがどう思っているかは定かではありませんが、DAIGOさんとしては、竹下家の血を引く後継者を、という声は意識せざるを得ないでしょうね。親戚には大物政治家の小沢一郎氏や故・金丸信氏などがいて、40才を超えた頃からDAIGOさんへの出馬の期待は高まるばかり。大叔父にあたる国会議員の竹下亘さんが昨年、食道がんを公表。それ以来、地元の島根ではDAIGOさんを後継者にというのが既定路線のように語られています。今回のしらせには地元も盛り上がるでしょう」(政界関係者) お家事情をさておいても、DAIGO個人にも、このタイミングで父親になることへの強い思いがあった。「DAIGOさんがブレークしたのは、『天才!志村どうぶつ園』(日本テレビ系)への出演がきっかけでした。デビュー当初から志村けんさんが、目をかけてくれて、DAIGOさんは、志村さんを芸能界の父として慕っていました。ですから、志村さんが亡くなったときにはかなり落ち込み、なかなかお悔やみのコメントが出せなかったほどです。その志村さんに、DAIGOさんはずっと子供を授かったという報告をしたいと考えていたそうです」(テレビ局関係者) DAIGOはインスタグラムで《KET これからも 園長に ついていく》と志村さんへの哀悼を綴っていた。※女性セブン2020年5月7・14日号
2020.04.23 07:00
女性セブン
「マスク2枚配布」以外にも…国家を危うくした怪物官僚列伝
「マスク2枚配布」以外にも…国家を危うくした怪物官僚列伝
「戦後最大の危機」に臨んで安倍晋三首相の混乱ぶりが際立っている。突然の全国一斉休校要請で並みいる大臣たちを驚かせ、唐突にマスク2枚配布を言い出して国民を唖然とさせた。緊急事態宣言をめぐっては「まだそういう事態には至っていない」と渋りながら、一転、発表即日に公布するという場当たり対応で混乱に拍車をかけた。 そんな安倍首相を陰から動かしているとされるのが今井尚哉・総理首席秘書官兼総理補佐官ら官邸官僚たちだ。 経産官僚から「総理の分身」と呼ばれる首席秘書官に起用されて以来8年間、今井氏は常に首相のそばに仕え、昨年秋からは「政策企画の総括担当」の総理補佐官を兼務して国政全般ににらみを利かせる立場に就いた。「今井ちゃんはなんて頭がいいんだ。頭の中を見てみたい」 首相はその才を高く買い、コロナ対策にあたっても今井氏の献策を採用するといわれる。だが、官僚が分を越えて政治家以上の権勢を振るうのは正常な国のあり方とはいえない。過去、権力が集中した“怪物官僚”が政治を主導して混乱を招いたことは何度もあった。◆次官交代を「拒否」 平成初めの混乱期、政治腐敗で行き詰まった自民党長期政権を倒して細川護熙連立政権が発足(1993年)。 期待を集めた細川政権がわずか8か月で倒れる原因をつくったのが、当時、霞が関で「10年に1人の大物次官」と呼ばれた斎藤次郎・大蔵事務次官だ。連立政権の中心人物、小沢一郎・新生党代表幹事と太いパイプを持ち、細川首相に国民福祉税の創設を強く迫った。 細川首相の総理首席秘書官を務めた成田憲彦・元駿河台大学学長は舞台裏をこう振り返っている。「大蔵省は政権発足時から何回も隠密に細川さんに会い、消費税引き上げの必要性を説明した。(中略)細川さんは妥協として、消費税は廃止して福祉のための税金にするということで国民福祉税になった」(日経新聞2012年1月3日付電子版インタビュー) 1994年2月3日の午前1時、細川首相は異例の深夜緊急会見を開いて税率7%の「国民福祉税」を創設すると発表した。 しかし、これに与党第一党の社会党が激しく反発、8党派の寄り合い所帯だった政権は内部崩壊を起こし、細川氏は2か月後に退陣を表明する。国民の期待を集めた政権交代はこうして潰えた。 かつて「防衛省の天皇」と呼ばれたのが守屋武昌・元防衛事務次官だ。 小泉内閣時代の2003年に次官に就任すると人事で側近を重用し、後継次官候補の官僚を次々に左遷し、「次官1年、長くても2年」の霞が関の慣行を破って異例の4年にわたって次官にとどまって権勢を恣にした。 その陰で、守屋氏は防衛商社と癒着、夫婦同伴の旅行やゴルフ接待を受けて防衛省の防衛装備品の納入で便宜を図っていた(辞任後に汚職事件に発展)。 第一次安倍内閣の小池百合子・防衛大臣が就任直後に守屋次官の交代と新次官人事を内定すると、反発した守屋氏はなんとこれを拒否する。守屋氏は官邸に根回ししてイエスマンを自分の後任の次官に据えようと工作し、防衛省内で“内乱”を起こしたのだ。◆菅直人氏、野田佳彦氏を籠絡した官僚「消費税は上げない」と国民に公約して政権をとった民主党内閣は、消費税増税という国民への裏切りで瓦解した。 その立役者が菅内閣と野田内閣の2代にわたって財務事務次官を務めた勝栄二郎氏だ。この人物の“凄み”は、政治家に増税推進と引き換えに権力を与えたことである。「官僚は大バカ」と言っていた菅直人氏は、鳩山内閣の副総理兼財務相に就任すると増税反対派から増税派に変身。鳩山政権の後を継いで首相になると突然「消費税10%」を掲げ、東日本大震災が発生すると復興の前に「復興増税」を決めた。裏にいたのが勝次官である。 シロアリ演説(*)で知られた野田佳彦氏も同じ手法で籠絡された。財務相になると増税推進派に転じ、菅首相の失脚後、首相に就任すると民自公3党合意で消費税10%へのレールを敷いた。【*2009年の衆院選の演説で、天下り官僚をシロアリにたとえて「シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす。そこから始めなければ消費税を引き上げる話はおかしいんです」などと語っていた】 菅氏と野田氏に共通するのは、財務大臣を務めて増税派に転向し、総理の座を射止めたことである。◆「総理が無能だと官僚がのさばる」 今井氏には先達がいる。24年前、通産官僚から橋本龍太郎首相の総理首席秘書官となり、橋本行革に辣腕を振った江田憲司氏(元民進党代表代行)だ。 橋本首相が行革の目玉に掲げたのは、明治以来の中央省庁の大再編であり、1府22省庁あった中央官庁を1府12省庁に半減させるものだ。当然、霞が関や族議員あげた猛反対を呼び、金融行政と財政を分離して財務省に“格下げ”となる大蔵省は徹底抗戦した。 その中央省庁再編を取り仕切った江田氏は、「橋本の森蘭丸」と呼ばれて批判の矢面に立たされた。 森蘭丸とは、織田信長のお気に入りの小姓で秘書役を務め、織田家の有力部将たちから「蘭丸に睨まれると信長様の覚えが悪くなる」と恐れられたと伝えられている。 まさにかつての江田氏は現在の今井氏とそっくりな立場にいた。総理秘書官に振り回される現在の政治状況をどうみているのか―─江田氏本人はこう語った。「私自身も橋本総理秘書官のときは今の今井さんのように官邸を牛耳っていると随分と批判をされたが、私も彼も、あくまで総理の命を受けて総理を補佐している。今回の新型コロナ対策でも安倍総理に意見具申しているのでしょうが、だからといって今井さんが勝手に政策を差配しているわけではなく、あくまで最終判断は安倍総理が行なっている。その政策がまちがっているとすれば、安倍総理を批判すべきでしょう」 そのうえでこう警鐘を鳴らす。「確かに、官僚に操られている政治家は多い。それが一国のトップ、総理だったら大変です。だから政治家がもっと賢くならねばならない。政治家、総理が無能だと、権力官僚がのさばることになる」 かつて日本は「政治は三流、官僚一流」といわれて優秀な官僚が国を支えた。それがいまや総理の側に仕える官僚が国難にあたって「マスク2枚」の知恵しか出せない。いつの間にか「政治も官僚も三流」に成り下がったのか。※週刊ポスト2020年4月24日号
2020.04.15 16:00
週刊ポスト

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