翌1984年、石山は同じく在日同胞である新浦壽夫(前年まで巨人)と「三星ライオンズ」に入団。新浦の登板時には必ずバッテリーを組み、1985年の新浦の最多勝をバックアップした。
1986年に選手生活から完全に身を引くが、その人柄と人付き合いの良さから、再び近鉄からブルペン捕手として声がかかる。その際、権藤博・投手コーチからブルペンの“仕切り役”を要請されている。権藤は投手コーチになったら、まず必ずブルペンのしきり役が誰かを判断する。石山については、「少々口が多いが全体を仕切れるから、いの一番で指名した」と言っていた。89年の優勝の際、ベンチ裏で権藤コーチと仰木彬監督の確執があった時は、石山が調整役を果たし、うまくチームをまとめていた。
思えばあの当時の近鉄の連中は、元々仲が良かった。東京での試合後は必ず六本木に出向いて飲み歩き、最後はコーチ・選手たちが合流して『長い髪の少女』(ザ・ゴールデン・カップス)を唄い上げるのがお約束。ホテルに戻るのはいつも午前4時を回っていた。早朝に外を散歩している監督と出会っても、お互いまったく動じなかったのだから、まさに規則も門限もない、豪快なチームであった。
特に当時のバッテリーの繋がりは強かった。投手コーチだった権藤を中心に、小野和義、阿波野秀幸、吉井理人、山下和彦に、何故か石山も参加して、「GON会」なるものを結成(今は散会)。毎年の権藤の誕生日(12月)には、東京でゴルフコンペを開いていた。
石山は大阪から飛行機で出てくるのだが、いつも帰りは嬉しそうにしていた。「行きはエコノミー、帰りはファースト」──それが、ゴルフのうまい彼の、私に対する口癖であった。今年の春、宮崎でキャンプを張っていた斗山の石山監督に会った時も、「今年は楽しみが減ったよ」と笑っていたのを思い出す。そしてこう付け加えた。
「ウチのチームをよろしく」
日韓関係がこんな時だけに、両国の野球に太いパイプを持っている石山に、交流の橋渡しをしてもらいたいものだが。
※週刊ポスト2014年5月30日号