「成瀬さんはお芝居のことは何も言わない監督でした。でも、『放浪記』の時だけは違いましたね。妻役の高峰さんが自分のお給金で夕飯のおかずを買ってきて、僕が気に入らない顔で睨む場面なんですが、成瀬さんは『違うよ、宝田君』と言うんです。僕なりに役に入っているつもりでしたが、何度やっても『違う』と。
朝からテストを始めて、その日の夕方になってもOKが出ない。宿に帰っても、どこが違うか分からない。それで翌朝も五、六回テストしてもダメで、高峰さんに『どうしても分かりません、僕は一体どこが違うんでしょう』と聞いたんです。そしたら高峰さん、『分かっているけど、もったいなくて教えてあげないよ』って。
その時、ムカムカきましてね。殴ってやろうと思ったくらいです。で、監督に『本番、お願いします』と頼みました。できる自信はないんですが、この大先輩に対するムカつきだけですよ。それでグッと睨んだら成瀬さん、『宝田君、それでいいんだ』と。僕の眼力が足りないのを高峰さんが引き出そうとしてくれたんだと思うんです。
それから数十年して高峰さんからお電話があったのですが、その時『放浪記』の話題になりまして。
高峰さんに『あの時にあなたに言った言葉の意味、分かる?』と聞かれたので『分かります。何事も自分で勝ち取らなきゃダメだという意味だと思っています。あなたの言ってくださった言葉は全て、私の脳天から爪先まで太い串となって今も貫いています。ありがとうございました』と答えました。そしたら高峰さん、電話の向こうで泣いていましたね」
●春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。映画史・時代劇研究家。著書に『天才 勝新太郎』(文春新書)、『あかんやつら~東映京都撮影所血風録』(文芸春秋刊)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮新書)、『時代劇ベスト100』(光文社新書)ほか。責任編集をつとめた文藝別冊『五社英雄』(河出書房新社)も発売中。
※週刊ポスト2015年1月16・23日号