栃木と名古屋の教諭たちは「命の大切さ」を教えたかったそうだ。人がぶっ殺される場面を見て、人は人の命の重みを学べるか。逆である。命がこんなにも軽く扱われる世界がある、という現実が分かるのだ。学べることは、その恐怖だ。
三重の教諭は、「テロ行為が許されないこと」を教えたかったらしい。たしかにあの写真を見れば腹が立つ。テロリストに憎しみを抱く。しかし、その教育は、うちなる攻撃性を肥大化させる以外に何を子供たちにもたらすのか。日本の自衛隊も有志連合と共に戦うべきだ、とまで教えるのなら、それは一つの立場である。が、まさかそこまで言えるはずも、言うつもりもない。深く考えることなく、行き場のない怒りを駆り立てるのは反教育的行為である。
尾木ママなども含め、複数の識者らはPTSDの心配をしていた。謝罪した各教育委員会の中には、スクールカウンセラーの増員を発表していたところもある。はっきり言っておおげさだと思う。3件とも「画像を見て体調不良を訴えた生徒はいない」ということだが、当たり前だ。グロという意味では、あの映像を上回るアニメなりゲームなりに、子供らは日常的に接しているのだ。それに子供ってのは、そんなにヤワじゃない。
こんなことを思い出す。私が小学生の頃、社会科の授業で、ヒロシマの写真集を見る機会があった。教室にテレビなどない時代だったから、大判の写真集を座席順に回していった。炭化した遺体、壁に染みついた人影、処理しきれぬ遺体の山、剥がれた皮膚をぶらさげて彷徨う人々。「すげっ」と見るクラスメイトがいた。黙ってじっと見つめている者もいた。「私はパス」と見なかった子もいた。先生は、「戦争の記憶を風化させてはいけません」とだけ言っていた。ちなみに日教組ではない。管理教育で悪名高き千葉県の中でも軍隊式のスパルタ教育で新聞に取り上げられたことさえある公立小学校だった。そんな学校なのに、戦争の怖さを教えてくれた。
歴史資料と現在進行形のテロ映像とは意味が違う、という意見もある。もっともらしいが、そういう人は、ヒロシマの写真集をちゃんと見たことがあるのだろうか。衝撃度はそんなに変わらないはずである。少なくとも私は、あの写真集の写真が、いまだに忘れられない。そして、写真集の影響だけではないが、反戦意識が根強く貼りついており、同時に反米意識も底流に潜んでいる。教師が直接教えたわけではなかったが、ピカを落とした奴らが許しがたいのだ。
さて、このたびの虐殺映像を学校で見た子供たちは、上記の3校の児童生徒だけではあるまい。学校外で見た子供たちは、数え切れないほどいるに違いない。みんないったい揺さぶられた感情をどうおさめていくのだろう。
教師のみならず、子供が身近にいる大人たちは、きっとISとイスラム教の違いから教えていかなきゃいけない。テロの生起メカニズムを自分も勉強しながら子供に伝えなきゃいけない。
すごく面倒な話だ。けれども、自分がよく分からないなら、「先生もまだよく分からないんだ」というところから話さなきゃいけない。そういう授業だったなら、あの映像を見せるのもアリではないかと私は思うのだ。