マニエルはフィラデルフィア・フィリーズの監督を務めていた2009年、ワールドシリーズでヤンキース(当時)の松井秀喜に打ち込まれ、2連覇の野望を絶たれた苦い経験を持つ。
「あのときは誰に投げさせても、どこを攻めても打たれるような気がしたし、実際にそうなってしまった。パワーはもちろんだが、確かな選球眼と高い技術も身につけていた。イチローとともに日本の野球史に輝く選手だ」
マニエルはフィリーズ時代、田口壮と井口資仁の監督だった時期もある。
「2人とも走攻守にわたって洗練されていた。特に田口はバントも上手く、一塁から三塁への走塁も素晴らしかった。2008年は打撃の状態が良くなかったが、ベンチ登録から外すことはできなかった。チームが困った場面で助けてくれる非常に存在感のある選手だった。
彼は出番がなくても、いつも早く球場入りして練習に励み、試合の準備を怠らなかった。井口についても同じことがいえる。そういう野球に対する姿勢は見習うべきものがあった。監督をやるようになって広岡(達朗)サンの気持ちがわかるようになったよ(笑い)」
マニエルはヤクルト時代に広岡達朗監督、ジョンソンは長嶋茂雄監督と起用法を巡る確執があった。
「忍耐」──日本で何を学んだかと問うと、2人は申し合わせたようにいう。洋の東西を問わず、監督に強く求められる必須条件だ。日本野球はメジャーに有能な人材を供給するだけでなく、名監督誕生にもひと役買ったようである。
●文/出村義和
※週刊ポスト2015年5月29日号