引き金は、見城氏が『週刊文春』のインタビューで答えた文言だった。出版されたAの手記について見城氏は「僕は読んでいないんだけど」と語っている。しかしAは見本本とお礼の手紙を送り、感想を受け取ったのだと主張した。
《出版後、世間からの批難が殺到すると、見城氏は態度を豹変させ、靴に付いた泥を拭うように、僕との接点を“汚点”と見做して否定しました》
《彼(見城氏)にとって“少年A”は「自分に箔を付けるための物珍しい奇怪なアクセサリー」だったのでしょう。(中略)見城さん、この僕の悔しさ、惨めさがあなたにわかりますか?》
最後に見城氏に会った日については、こうも綴っている。
《光景を思い出すたび、身体の奥底から悲しみと怒りと悔しさのトルネードが巻き起こり、内臓を捩じ切られるような思いです》
些細な齟齬があったのかもしれないが、足かけ2年にわたりかかわりを持ち、かつては心酔してきた人間を、なぜ手のひらを返したようにこれほど攻撃できるのか。手記出版の舞台裏を知るある人物にこの手紙を見せたところ、絶対匿名を条件にこう語った。
「手紙を見る限り、記されているAと見城氏のやりとりは本物です。Aしか知り得ない事実も綴られていることから、A本人が書いた可能性が極めて高い。ただ、なぜあれほど崇拝していた見城氏にこれほどの罵詈雑言を浴びせるのか。そこが不可解です」
前述の返信にも見られるが、見城氏は当初から一貫して手記を出版することはできないという立場をとっていた。
「ただしいくつかのハードルをクリアすればあるいは出版する可能性は0ではないと考えていたようだ。それは匿名ではなく本名で書くこと、遺族に説明し理解を得ること、なにより贖罪の気持ちを強く持つことの3つ。編集チームとしても、もしそのハードルがクリアされ、世に出すべきタイミングが来たら…という気持ちも当然あったと思います。
しかしそれは、あくまで手記ではなく、Aの書く小説やエッセイや別のなにかという形を考えていた。Aにもその点は何度も伝えていたはずです」(前出・事情を知る人物)
そして編集チームはAの執筆活動に関わっていく。Aは見城氏から金銭的な援助も受けていた。Aがある程度の形となった原稿を編集チームに見せたのはいまから1年9か月前のことだった。
「Aと編集チームの意見がすれ違うようになったそうです。Aはあくまであの事件の手記という形や描写にこだわりをみせていた。その頃『週刊新潮』で手記の出版計画が報じられました。何度かAとの話し合いは続いたようですが、最終的に幻冬舎は出版を断念し、Aの意向もあって太田出版から出すことを決めた。ですから、Aが何の点で見城氏に裏切られたのかわからない。見城氏が“まだ読んでいない”とインタビューで答えたのも“完成本は読んでいない”ということでしょうし、手記を否定したわけでもAを拒絶したわけでもないですからね」(前出・事情を知る人物)
Aは出版直前からこんなことを口にするようになっていたという。
「この手記は100万部は売れるはずだと豪語していたそうです。絶対的な自信があったんでしょう。プロモーションのためにホームページを立ち上げたいということもこの頃から考えていたようで、出版サイドからたしなめられたこともあったそうです。今の25万部への不満がこのような形に出たのかもしれない」(前出・事情を知る人物)
※女性セブン2015年9月25日号