◆1人ワイドショーみたいな人だった
ちなみに『蒲田行進曲』のヤスは長谷川氏のヤスでもある。1972年に戯曲『戦争で死ねなかったお父さんのために』で注目され、早稲田小劇場や学生劇団「暫」でも活動を始めたつかと、長谷川氏は浪人時代に出会い、早大進学後は暫に入団。後のつか劇団を担う三浦洋一や平田らと出会い、『初級革命講座飛龍伝』や『熱海殺人事件』、『ストリッパー物語』等をいかに作り、演じたかを、本書では元団員の証言を元に再現する。
「当時はビデオもないし、記録がほとんど残ってないんですね。世間では“つか以前/以後”とも言われた芝居がこのまま消えていいはずはないのに、つかさんへの追悼文も活動再開後の『飛龍伝』とか、つか以降に関するものばかりだった。例えば根岸季衣がどれほど『蒲田』の完成度を高める上で重要な女優だったかとか、本当はそっちが核心のはずなんですけどね……」
常々〈逆説の人〉と評されたつかではあるが、通常なら逆接で結ばれる要素が、「残酷だから優しい」「嘘だから真」「建前だから本音」等々、むしろ順接で結ばれるのがつかの芝居であり、彼自身の生き方でもあった。
「つくづくそう思います。特に初期の作品は『熱海』=正しい犯人のなり方とか、ほぼ〈正しい○○の○○方〉で説明がつく。正しいからこそ滑稽でやりきれなかったり、殴った方にドラマを見るのが、つか作品だった。
つかさん自身、わざわざ暴言を吐いて本音の人だと思われることが建前になってもいたし、団員の家族の話や恋愛沙汰が大好きで、ゴタゴタはもっと大好物な、1人ワイドショーみたいな人だった(笑い)。晩年こそ一元的にわかりやすく割り切った感じもあるけど、その逆説的で矛盾した世界を観客もまた享受した時代があったのは確かなんです」
その後もつかの周りには加藤健一、柄本明といった才能が次々に参集し、時代と才能の共犯関係をこれほど感じさせる劇団史もない。
「僕自身、あの時、あいつに会わなければということの連続で、全ては〈必然〉だったとしか言い様がない。でもそれは僕らに限らず、今もいろんな場所で起きているはずで、だから面白いんだな、人生はって、つかさんなら言うと思います」
人懐こいかと思うと冷たく突き放し、あえて人恋しさと格闘するような日常を、少なくとも共有する仲間が彼にはいた。〈面倒〉をかけてはかけられ、〈傷つくことだけ上手になって〉、それでもお互い様で生きる人間の真実を、私たちもつかから学んだ教え子の一人なのだ。
【著者プロフィール】長谷川康夫(はせがわ・やすお):1953年札幌生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中、劇団「暫」入団。『いつも心に太陽を』『広島に原爆を落とす日』『初級革命講座飛龍伝』『蒲田行進曲』等、一連のつか作品に出演。1982年の劇団つかこうへい事務所解散後は劇作家、脚本家として活躍し、2005年の映画『亡国のイージス』で日本アカデミー賞優秀脚本賞。近年の脚本作品に『聯合艦隊司令官 山本五十六』『柘榴坂の仇討』『起終点駅 ターミナル』等。174cm、62kg、AB型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2016年1月29日号