「歌声喫茶では、見習いでコーヒーを運びながら歌の勉強をしていました。で、そこのマスターが『舞芸を出ても役者なんてやっていたら三十、四十になったって食えねえぞ。だけど、お前は声がでかいから歌をやれば何とか食えるようになるかもしれない』って言うんですよ。
その言葉は説得力がありました。腹ぺこの時に『食えるぞ』という言葉は重くて。それで舞芸を辞めました。高校を卒業する時に兄貴やおふくろを説得するのに『新劇の俳優になるんだ』と啖呵を切って、自分も俳優を一生の仕事にしようと思っていました。舞芸に入る前に働いていた時も、その望みを秘めて頑張ってきました。そうやって長年温めてきた夢を、腹減ったぐらいのことで諦めていいのかという忸怩たるものはありました。
で、その時に『役者の道を見限るんなら、もう絶対に役者にはならない。歌で頑張るぞ』と誓いを立てました。それからはピアノを練習したり、楽譜を読めるように勉強しました。
今でも、舞芸の同期で役者をやっている人が何人かいるんですけど、そういう奴こそが役者なんだと思いますよね。食えなくても、ずっと芝居に命を捧げてコツコツと芝居を積み上げてきて、自分の世界を積み上げてきて。五十年も六十年も食うや食わずのことをやっているのは凄い。若い頃の僕には想像もできなかった世界です。
僕は、歌が売れて顔が売れたもんだから役者の仕事が来たわけですが、本物の役者じゃないという思いはいつもあります」
●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』(文藝春秋刊)、『なぜ時代劇は滅びるのか』『市川崑と「犬神家の一族」』(ともに新潮社刊)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館刊)が発売中。
撮影■藤岡雅樹
※週刊ポスト2016年4月8日号