コンゴで暮らすベルギー人たちは、彼ら独自の共同体と生活スタイルを保っていたため、休暇でベルギーを訪れても、環境に戸惑うことはなかった。彼女に抵抗があったとすれば、1996年より一家が揃ってベルギーに定住するようになり、初の冬を知ったときだ。「みんな家の中に閉じこもってばかりで、つまんないわ。誰も外で遊ぼうとしないの」と彼女は言ったという。
アフリカの人々は、余暇があれば、屋外や海で開放的に過ごす生活を好む。一方、ヨーロッパでは、冬場になると人間の生活スタイルが閉鎖的になる。生活習慣の差は、アフリカから来た者たちであれば、誰もが抱くことだ。
しかし、このころ既に他の誰とも共通しない問題を、彼女は抱えていた。
「何をするにも、人以上の才能を発揮した。けれども、ダメなんです。スポーツが大好きでも、試合はしたくない。音楽に優れていても試験は受けたくない。大学でも同じで、授業は好きでも試験は受けたくないんです」
彼女は何事もそつなくこなすが、学業にしてもスポーツにしても最終的に定着しなかった。それは彼女が、こらえ性がない、怠けていることを意味するわけではない。彼女は「責任」を伴う行動や「評価」の対象となる行動を極度に恐れていたという。
グレゴワールが説明を続ける。
「自分の考えを他人に表現することが極端に苦手でした。学校の成績も良かったので、周りは、『エディットは、何でも簡単にできるのね』と言う。でも妹は、自分が理解できるまで睡眠も取らずに勉強していました」
父親のピエールも昔の記憶を辿った。
「22歳の頃でしたかね……。突然、『フラマン語(*2)を覚えたい』って言うんですよ。私は、『覚えたいなら手伝うぞ』と言うと、その日から、辞書を片っ端から引いてフラマン語の新聞を読みあさるんです。すると、2か月後には私と一緒に会話をしていたんですよ」
【*2:フラマン語は、ベルギー北部で使われる同国の公式語。オランダ語に近い】
卓越した学習能力を持つ反面、対外的にそれを発揮しようとしない。ピエールはそんな娘に、内なる才能、つまり芸術的素養を見て取った。ピエールは、彼女をベルギーのリエージュにある芸術専門学校に入学させることにした。親元を離れて1人で生活することを、エディットは素直に喜んだという。
しかし、それも半年しか続かなかった。後に、高等教育の看護学校にも籍を置いたが、適性能力が認められると、学生の世話を頼まれるようになった。するといつものように、その責任に堪え兼ね、半年後に退学した。