文月氏は詩やエッセイを書く時も「予めプロットを練った上で、エピソードや言葉を再構成する」という。詩人とはいえ言葉がひとりでに降りてくるわけもない。だが世間はそう思わないらしく、飲み会などでは〈詩人、ここで一句!〉と無茶ブリされ、〈キャラから少しでも外れると「詩人のくせに」となじられるのだ〉。
が、〈理不尽な扱いを受けたら、その状況を楽しまなくては損だ〉と考えるのが文月流。中でも顕著なのが三章「セックスすれば詩が書けるのか問題」だろう。
ある時、〈あなたの朗読にはエロスが感じられないね。最近セックスしてる?〉とイベントの男性客から突然問われた氏は、〈関係ないと思いますけど〉と反論するが、〈あるね〉となおも持論を展開されてしまうのだ。
注目はその後だ。作者の恋愛経験と作品性には実際どんな関係があるのか。そもそも女らしさって何? 等々、いわゆるフェミニズム的な言葉遣いとは違う自分なりの言葉で、性別に関する諸問題を原点に立ち返って考えようとする。
「別に男性批判じゃないんです。彼がなぜそんなことをいったのか、という背景が知りたくて、理不尽な目に遭った以上はトコトン探求したい気持ちですね。なぜ女子だけが容姿で格付けされ、なぜ恋愛しろといわれてしまうのか。私は自分の中にある違和感を言葉にすることで、解き明かそうとしてきました。それが詩の形になったのは10歳の時。人に届く文章を書くことには、当時から意識的でした。
もちろんセクハラめいた質問に対して、その場で冷静に答えるのは難しい。でも後から文章にする際の客観性と、渦中でこそ感じる切実さの、2つの時間が本書には同居している。時間ってそういうものだし、人間は変化するからこそ、面白くも切なくもある存在だと思うんです」