だから、うちの台所は、いつも煮沸している哺乳瓶が並んでいて、『すげえな、まるで保育所だな』っていろんな人から言われてね」(香葉子さん、以下「」内同)

 当時まだ売れっ子ではなかった夫に代わり、香葉子さんは、少しでも家計を支えようと釣り針を作る内職をしていた。授乳中でもその手は止まることなく、右手で内職をしながら、左手で長女・海老名美どり(63才)に授乳していたという、大活躍のおっぱいだった。

「だから、左のおっぱいだけがどんどん垂れ下がってしまって、『形は悪いけど、私のおっぱいはすごいのよ』って言っていたくらい。よく飲ませ、よく働いてくれた左胸が、まさか乳がんになるなんてね」

 がんが見つかったのは、偶然受けた人間ドックだった。

「主治医の先生から『人間ドックをはじめたばかりで来る人が少ないから』と誘われたので、初めてマンモグラフィーを受けたんです。検査が終わって部屋から出てくると、先生が『海老名さ~ん』って呼ぶんです。その声がいつもと違うから、どうしたんだろうって不思議に思いながら、『は~い』って返事をして、言われた通り椅子に座ると、『胸にしこりができちゃった』と先生が言うんです。『しこりって何ですか? もしかして、がん?』と聞くと『そうです』って。私はすぐにその場で、『そうですか。すぐに取っていただけますか』ってお願いしました」

 香葉子さんは「先生を信じていたから、手術をして取ってもらえば治ると思った」と言う。そして医師もそれに応えて、手術ができる病院をその場で紹介してくれた。

 だが、70才を超えて体力の衰えた高齢者に、手術は危険な場合もある。一方で高齢であればがんの進行も遅い。体に大きな負担をかけるリスクのある手術を選んで延命するか、がんを残しつつ、苦痛だけ取り除く「緩和ケア」を選択するか…医師によっても判断の分かれる難しい選択だ。

 それゆえ、家族にも相談せずその場で「すぐに取っていただけますか」と手術を選択した香葉子さんを、周囲は怒ったり泣いたりして大変な騒ぎとなった。

「その日、家に帰ってすぐに伝えたのは、長男・正蔵の嫁、有希子さんでした。『私、乳がんになっちゃった』と言ったら、いつもおとなしい嫁が、ダイニングテーブルから急に立ち上がって、『お義母さん、そんなことはありません。今まで何もなかった人が急に乳がんになりません!』って涙を流しながら怒るの。それで、『そんなに怒らないでよ。私だって好きでなっているわけじゃないのに』って言ったけれど、あんなに嫁に怒られるとは思いませんでしたね。いつもはおとなしいんですよ。それが突然に怒り出して、びっくりしました」

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