◆判断ミスばっかり
応仁の乱では、「有力守護大名の細川勝元や山名宗全といった主要人物らが、揃いも揃って見通しを誤り続けた」とする呉座氏。一例として挙げるのが、戦乱の発端となった1467年の「御霊合戦」だ。
御霊合戦は守護大名・畠山家の家督争いのために起きた戦闘。畠山義就―畠山政長の従兄弟同士が争った御家騒動である。
「義就を支援していたのが山名です。一方、政長の後ろ盾は当時、幕府の実権を握っていた細川。御家騒動が起きると、将軍・足利義政は、山名、細川の両者に軍事介入を禁じます。義政は“家督争いに勝った方を支持すればいい”という日和見の判断をしたわけです」(呉座氏)
ところが、山名が将軍・義政の命を破り、畠山義就に加勢してしまう。その結果、畠山政長は敗北を喫する。
「それまでの戦況を考えると、恐らく山名の介入がなくても、義就が勝っていたと思われます。山名は勝利を確実にしたかったから加勢したのでしょう。結果として、その代償は高くつきました。将軍・義政の命をバカ正直に守って介入しなかった細川は世間の評判を落とし、汚名返上のため反撃せざるをえない状況が生まれてしまった」(同前)
事なかれ主義の指示を出した義政も、義就の勝利を信じ切れなかった山名も、素直に指示を守って窮地に追い込まれた細川も、たしかに“凡人っぽさ”がある。
「その後、山名、細川の対立が深まってからも、中立を守ろうとした将軍・義政が弟に強く迫られて細川支持の立場を表明してしまったり、講和を結ぼうとしたら参加する大名が多すぎて利害調整がうまくいかなかったりと、“グダグダ”のまま長く続いた戦乱といえるのです」(同前)
そんなふうに応仁の乱の面白さを伝えようとする呉座氏の論考について、歴史研究家で多摩大学客員教授の河合敦氏はこういう。
「近年の研究では、応仁の乱の後半は、守護大名同士が激突するというより、京都で庶民と傭兵の中間のような者たちが小競り合いを続けていただけだとわかってきている。ダラダラ続いた戦いとして応仁の乱を捉え直す試みは、斬新で面白く感じられました」
ドラマにならないドラマ──そこに応仁の乱の奥深さがあるというのだ。
※週刊ポスト2017年3月10日号