◆宋美齢からの手紙
日本時代に親しんだ野球への記憶も残っていた。野球に熱狂する世論に驚いた国民党政府は一転、選手育成に力を入れ、台東は台北などの高校や大学に選手を輩出する役割を担うようになる。
KANOを「第一世代」、その教え子を「第二世代」とすると、郭源治らは「第三世代」。彼らは国際大会で大活躍し、その野球熱は陽岱鋼ら「第四世代」には薄れるどころか、戦後強まっていく。
台東の豊年という集落で育った郭源治の家庭は貧しく、零細農家だった。父は日本教育を受け、田んぼの農作業の休憩の合間に裸足で練習する郭源治に野球を教えた。両親を貧困から野球によって引き上げたい。それが郭源治の原動力であり、幸い、台東には野球に打ち込む環境が整っていた。
「アミ族は勉強で漢人に勝てない。成功には野球が一番の近道だった。でも、本当に縁ですよ。お父さんが野球を日本時代にやっていなかったら、そして、KANOの人たちがいなければ、私は野球がこれほど上達しなかった」
郭源治は、日本で100勝100セーブをあげ、日本人女性と結婚して1989年には日本国籍を取得する。「日本を第二の故郷にしたい」という思いのなかで、悩んだのは台湾政府から受け取った野球奨学金のことだった。
中学、高校まで学費は野球特待生でほぼ無料だったが、大学は学費があるため、大学入学を辞退した。それがメディアで報じられ、蒋介石元総統の夫人・宋美齢のポケットマネーによる奨学金を受け取って大学に通えることになった。祖国への「恩義」を裏切ることを恐れた郭源治は、当時まだ存命中だった宋美齢に手紙を書く。返事は、思いがけず、すぐに届いた。
「国籍は関係ありません。あなたの心がいちばん大事です」
手紙の一言で、最後に背中を押された。郭源治とのインタビューは、最初は中国語だったが、回答がどうも硬くて戸惑った。日本語に切り替えると、生き生きと語るようになった。日本在住歴が30年を超え、日本語が半ば母語化しているのだ。台北市内で会ったときは、WBCで一次ラウンドで台湾チームの敗退が決まった日だった。監督はくしくも同じ時代に西武で活躍した郭泰源だった。