◆先住民だけの「能高団」
「ベースボール」が開国と共に米国から日本へ伝わったのは明治初期。武士道など日本の精神文化と融合した「野球」が、日清戦争に勝利し、清朝から割譲された台湾に渡った。そこには、集団競技に込めた「近代」と「日本精神」の輸出という面もあった。
折しも1920年ごろの台湾は初期の反乱を力で押さえつけ、先住民をいかに「日本国民」とするか模索する「教化」の時代に入っていた。彼らのすぐれた身体能力を生かし、日本式の規律を伝える方法として野球が選ばれたのは自然なことだったかもしれない。
台東と同じ台湾東側にある花蓮もアミ族ら先住民の人口比が多い。ここで台湾最初の先住民だけの野球チーム「能高団」が誕生した。能高は地元の山の名にちなむ。1925年、能高団は日本に遠征し、各地の高校と練習試合を組んで好成績を残した。先住民選手に目をつけ、主力4人をスカウトしたのが、当時、発足したばかりの野球部の強化を目指す平安中だった。今日で言うところの「野球留学」である【*注2】。
【*注2:4人のうち1人で、平安中のエースとなった羅道厚(日本名・伊藤次郎)はのちに東京六大学、東京セネタースで活躍する】
現在は「龍谷大平安高校」となった京都市内の同校を訪れたが、当時を詳しく知る人はいなかった。だが同校の分厚い野球部史に詳しく台湾選手の活躍が記載されていた。留学生の加入で「チームの力は飛躍的に向上した」とあり、1927年に甲子園初出場、のちの黄金時代につながっていく。