◆明治政府との紳士協定
さて、日本にいる外国人は治外法権に守られていたが、1894年、イギリスと日本のあいだでまず条約改正が成立した。
これにともなって、外国人には日本の法律が適用される。1887年、政府は保安条例を定め、無届けの集会を禁止していた。では、フリーメイソンの集会も、当局の監視のもとに置かれることになるのか。
そこで、イングランド系のフリーメイソンの代表者だったW・H・ストーンらは、外務大臣と面会して、この件を交渉することにした。条約改正が近いのをにらんでのことである。
その結果、日本政府は、フリーメイソンの集会を監視と取り締まりの対象としないことを約束した。その代わりに、フリーメイソンに日本人を入会させず、宣伝もしないことを約束させられた。
これは、口約束の紳士協定だったが、1941年に大東亜戦争が始まって、国内のロッジがすべて閉鎖されるまで、効力があった。この交渉は、1890年代の後半のことと思われる。
こうして日本人は、フリーメイソンのことを知らされず、フリーメイソンにもなれない状態に置かれてしまった。陰謀理論がフリーメイソンを叩いても、フリーメイソン側は紳士協定に従い沈黙を守っていたので、一般の人びとは、フリーメイソンに対する漠然とした不審と疑惑の念を抱くことになった。
◆鳩山一郎首相もメイソンに
日米開戦が近づくと、民間人はつぎつぎ本国に帰国し、「横浜ロッジ」は休止状態になった。外交関係者の多かった「ロッジ東方の星・六四〇」は、集会を続けていたが、12月8日の開戦と同時に当局に急襲され、ロッジにあった書類や備品が押収された。
押収品は、主要都市のデパートで、展示会を開いて一般に公開された。ドイツでのやり方をまねたものだという。東方の星のメンバーは、半年ほど抑留されたあと、交換船で出国した。
日本が敗れると、ロッジが再建された。「ロッジ東方の星・六四〇」は、かつてのロッジ・マスターで14カ月も収監され過酷な取り調べを受けた、マイケル・アプカーが戦後最初のロッジ・マスターに。
「ロッジ兵庫、大阪・四九八」は、かつてのロッジ・マスターで同じく投獄された、ジョセフ・レビーが戦後最初のロッジ・マスターに、就任した。戦後、各地に新しく開設されたロッジは、フィリピンのグランド・ロッジから承認を受けた。