綱吉ではないか。仮に誰かがそういうアイデアを進言したとしても、採用し実行したのは綱吉である。もう一つ注意すべきは、この「絶対のルール」はいったい誰が決めたのかということである。言うまでも無く「東照神君家康公」だ。当然、老中たちは「御公儀には林家がございます。あやしげな市井の学者などお近づけになってはなりませぬ」と激しく反対したはずである。
それを押し切りたとえ林家の出身で無くても優秀な学者なら登用するという合理的な新政策を実行したのである。これひとつとっても綱吉が「暗君」であるはずが無い。そして、同じ時代の人間として白石は自分が世に出られたのは結局誰のおかげかをはっきりと認識していたはずだ。にもかかわらず、白石が綱吉への感謝を口にした形跡は無い。
おわかりだろう、白石には「学識」はあるかもしれないが、あまり尊敬できるタイプの人間では無いということだ。その意味でも、白石の綱吉に対する評価はかなり割り引いて考えるセンスが必要だ。
※週刊ポスト2017年10月6日号