「あの朝青龍が〈朝さま〉として尊敬されていたり、意外と顔じゃないんですよね(笑い)。国籍も単にキャラの一つで、高安や御嶽海のフィリピン人のお母さんは『若くてカワイ~』で、それ以上でも以下でもない。かくいう僕も理屈を語りたがる分析オヤジの一人で、そうか、好きに理屈は要らないんだと気づかされたし、純粋に好きなものを守ろうとするスー女の存在は相撲界の希望だと思います」
彼はそこに韓流ファンにも通じる〈フィクションをさらにフィクション化して、自分の物語に変える〉ミーハー力を見、全てのスポーツは〈フィクションであることを意識に留めながらのめり込むべき〉だと書く。
「僕は大のサッカー好きでもあって、僕ら観客の熱狂が所有意識や排他性に転じる危うさと向き合ってきた。考えてみれば僕は土俵上の貴乃花に心酔していただけですし、高橋秀実著『おすもうさん』によれば、国技館ができる前は国技という概念自体なかったらしい。つまり日本人とか国家とか国技というのも全部、一種のフィクションなんです」
その虚構が時に途轍もない真実を孕むから私たちは胸打たれるのだが、昨今はトランプ政権の言う〈代替的事実〉やフェイクニュースが幅を利かせ、フィクションの取り扱いに関するリテラシーも低下しつつある。
「確かに。今は何事も声の大きい方の意見が罷り通り、印象だけで事実が決まっていくご時世ですからね。一方で現実がつらい時ほどフィクションはワンクッションになるし、目の前の事実が孕むフィクション性を自覚する訓練にもなる。今はみんなが孤独でつらいんだとは思う。だからって日本第一主義みたいな捏造的虚構にしがみついても、かえって自分たちの現実を息苦しくするだけです」