東京大学大学院で西洋政治思想史を学んでいた西田はイランからの女性留学生に恋をし、成就させるために学問を捨てる。日本を捨て、イランに飛んだ西田は、当時、設立されたばかりの東芝の現地法人に現地採用の職員として働き始める。西田が東芝の正社員となるのは31歳の時。一般社員が22歳で入社することを考えれば、約10年遅れの新入社員だった。
10年という周回遅れのランナー西田は、そこから自らの卓抜した能力と気力で前を行く者達を次々と追い越し、そして名門と言われて久しい東芝の社長という玉座に座る。まさに西田は“成り上がり”を体現してみせた、希有なサラリーマンなのである。昨今聞かれることがなくなった言葉だが、西田は“企業戦士”としてガムシャラに働き、その働きによって自己実現を図ろうとした。
◆「常に頭脳を酷使せよ」
ビジネスマンとして西田の能力の高さを証明し、またその基礎を作り上げたのがイラン時代だった。日本を遠く離れた異国で西田は、その才を遺憾なく発揮する。
「僕は別に技術者じゃないんだ。(けれども東芝は)会社というよりもメーカーなんですね。メーカーというものはやはり技術であり、数字なんですよ。だからたとえビジネスマンとして使う機会がなくても(技術や数字を)学ばないといけない。知らないことは学ばなければいけない」
西田はイラン人労働者を雇いながら、日本とは余りに違う製造現場で戸惑う東芝生え抜きの社員たちとともに、イランでの現地法人を軌道に乗せるべく八面六臂の活躍を見せる。