西田にとってすべてが未経験。その中、素人の西田は英語で書かれた会計の専門書を紐解いてはイラン側との会計統一基準を作り上げ、その一方でやはり初めて資材の調達や原価計算などをやりこなす。
西田の仕事を企業に当てはめれば、経理・会計から営業、総務まで企業の要となる分野を経験する。
「会社の数字は数学とは違う。同じ“1”でも1兆円の1なのか。1億円の1なのか。数字の背景となっている大きさを知らないと意味がない」
西田はイランで数字の重み、厳しさを叩き込まれる。西田は終生、数字に厳しかった。けれども、その数字によって苦しめられ、また疑惑を生むことにもなる。
西田との最後のインタビューではこんなやり取りがあった。東芝の不正会計を調査していた第三者委員会は不正会計に深く関与した歴代社長の1人として西田の名前を挙げた。西田は烈火の如く怒りを露わにした。
「1兆円のビジネスをしていた自分にとって、50億円や100億円(の不正会計)は多額でも何でもない」
西田の命を奪ったのは病名的には急性の心筋梗塞だったが、間違いなく彼が世界初のノート型パソコンの原型となるモデルを欧州で売り歩き、寝食を忘れるが如く働いていた時代に患った胆嚢に原因があった。
失敗すれば東芝はパソコン事業から撤退するという状況の中、ヨーロッパ市場開拓が至上命題だった西田は、猛烈に働く。働きながらも、「常に頭脳を酷使せよ」「周囲の変化に挑戦せよ」「失敗を恐れるな、失敗は次への成功の足がかりだ」などと書かれた紙を部下たちに渡しては鼓舞し続けた。