当時の表現で言うなら、「御手討ち」(家臣などを斬り殺すこと)である。光圀はその理由について明言を避けた。それだけに、さまざまな憶測を呼ぶことになる。他の殿様ならともかく、名君として聞こえた光圀みずから手を下したのだから、なおさらである。
紋太夫は幕府側用人(そばようにん)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)と結託し、光圀乱心の噂を立てることで、光圀の失脚を企てていた──そんなうがった見方も囁かれるなか、真相が明らかにされることはなかった。
状況証拠からもっとも可能性が高いのは、三代藩主綱條(つなえだ)を自在に操り水戸藩を私物化する傾向があった紋太夫を、光圀が口頭で注意しても反省の色がなかったため、やむなく御手討ちに及んだとの説である。
※SAPIO2018年5・6月号